刃物社会を考える・・・

Escalatorで、身体が触れる。Elevatorの昇降で、身体が触れる・・・時にはぶっつかる・・・日常茶飯的に生じることに何の懸念も抱かず、何の不具合も感じない・・・そんな話を若い人にすると、「貴方が鈍感だからだ・・・sensitivityに欠けるからだと、言われるそうだ。その反面で、相手の・・・特に、高齢者や外国人の体臭を気にして、あるいは嫌がって避ける、時には差別的な罵声を浴びせる・・・。
世の中、男性も女性も美しくなる・・・お化粧も上手になり、給料が上がらないといいつつ、高級なお化粧が売れる・・・しかも、男にも女にも・・・fashionは、日に日にvarietyに富んだものになり・・・私には、男性が日に日に崩れている様子に見えるのだが・・・、若い女性の脚は細くなり、skirtの短さが、効果的に美しさを楽しませてくれる・・・先日の、escalatorの殺傷事件とは裏腹に、世の中、楽しくなり、美しくなり、賑やかに、楽しい雰囲気になっているのに・・・・そこに馴染まない、馴染めない「人間」を生みだしてもいる・・・ことを、教えてくれる。アメリカやヨーロッパだと、「銃」が事件に絡むのであろうが、日本では「刃物」・・・これも、長かった「武士社会」の伝統でもあるのだろう・・・。「武士道」とは、似ても似つかぬものなのだが。

そもそもsurvival knifeが生活必需品なのか・・・日常品として・・・逮捕された男性の生活を、与えられた映像、情報から判断しても、私には必需品とは思えない。ならば、彼は、何に怯えていたのか・・・何に怯えなければならなかったのか・・・生活環境が、野獣の闊歩する密林や草原に見えていたのか、感じられていたのか・・・・。Fashionでは、現代に、文明社会に生きている様で、内容は「野獣」に過ぎない・・・勿論、「野獣」の美しさは全くないのだが・・・。すべからく、人間性失格・・・現代にも過去にも生きる資格もなければ、必然性もない・・・。この様な「人間」を生みだす病理を「政治」にし、「経済」にする評論家、市民活動家、あるいは、市民活動家的評論家は、得意になるだろうが・・・彼等の言説が、かくの如き人間的野獣を生みだすことになっている事には気がつかないのだろう。

「防犯カメラ」が、多くの評論家の避難を浴びながら、一見良識的な市民を装う「似非市民」の反対に屈せずに広がりを見せていることが、辛うじて、犯罪を、現行レベルで押さえ込んでいることを、私は評価したい。一合の米の中の「石に粒」が、口の中に入った時、大事な歯を損傷する、口の中を傷つける・・・だから、日本では、「精米」というprocessを大事にする・・・戦後の「エジプト米」を食した世代にしか理解できないことではあろうが、評論家自身が襲われることのない危険が、善良なる市民の恐怖となっている現実を、その様な評論家の言説の惑わされることなく、現実的な解決に努力すべきなのである。

公共交通機関で、身体の何処かに隠し持つ「刃物」の検出は、さほど難しいことではないであろうし、色々な工夫も可能だろう。しかし、其処に、「過剰な人権保護」を持ちだして、実行を阻害する勢力が、似非善意を振りまわすだけに厄介なのである。しかし、一般市民が、可なり神経質であることは、今回の、迅速な犯行者の逮捕を見ても理解できることである。一枚の「写真」・・・勿論、可能性のある地下鉄駅の防犯カメラを追跡した警察当局の努力は、大きく評価されてしかるべきである。クリミナルマインド、CSI等の刑事dramaの世界が、日本でも現実になりつつある。この傾向は、今後も広がりを見せることだろう・・・これが、globalismと云うものである。己を「善人」に作り上げ、善人を傷つけて憚らない人間・・・抹殺されてしかるべきだろう。

不審者訊問・誰何・・・これを実効的に可能にするtoolの開発が促進されれば、この種の犯罪も激減するだろう・・・暗がりを、何の準備もなく歩く弱者・・・特に女性・・・は、無理だろうが、これは当人達の無知が責められるべきであるし、己を無知のままにする蒙昧が批判されるべきだろう。

かつての「武士社会」・・・安物の時代劇では、武士・浪人が、ばったばったと人を切るが、江戸の治安を預かっていたのは、僅かな武士である。そして、神社仏閣の境内では、刀を抜いただけで、それは犯罪・・・厳しく咎められた。ヤクザの「ドス」も例外ではなかった。また、同心・与力の刀は「刃」が止められていて、人を切れない「刀」であったと言う。その例外が、「鬼平犯科帖」の「火付盗賊改」の武士団だったのである。盗賊を切るに躊躇する必要のなかった警察だったのである。また、二本差しで街中を歩く事は、武士でも、疑いの目を排除することは難しく、その所属する藩は、その羽織の紋所で明確であるし、その役職、地位も、ほぼ明らかであったと言う。勿論、人目の付かないさびれた場所や、夜間は例がである。町人しろ、武士にしろ、夜間の外出に、紋どころの明確な「提灯」が欠かせなかった理由の一つである。また、有名な店の紋どころ入りの「提灯」もまた、その武士、町人の出所進退を明確にする証でもあったのである。

近世以前の日本を訪れた外国人が、江戸を安全な街として評価したことの根底に、この身分に応じた挙動が存在したことがある。
現代、公的な場所でも、ラフな、そして落着きのない服装、fashionが許される。出るべき時には、出るべき所に相応しい服装・・・の伝統が崩壊している現実がある。「礼」の国の伝統が失われていることが、昨今の「刃物」犯罪を助長しているのだと、私は考える。「自業自得」と言うべきかも知れない。芸能人が、芸能の場所で、芸能人らしい・・・歌舞いたfashion・・・を見せるのは良いだろう。しかし、交通機関、あるいは、公衆の集まる場所では、許されないのではないか。ちゃらちゃらした、fashionの下に、かつての「買出し」を思わせる様なrucksack・・・武器を隠し持つに最高の、最適なfashionではないか・・・この様なfashion・・・ひとつづつ、例外なく「誰何」されるべきではないか・・・安全な日々、安穏を楽しめる場所・・・其処は、他の面で窮屈であって当然なのである。江戸・250年・・・その窮屈さの中で維持された「平和・安穏」を、今一度評価すべきではないか・・・・と、私は思う。