光市・母子殺害・再審請求の動き・・・・奇妙な「弁護」・・・再び?

「再審」・・・真実は何処に・・・と、newsを読む私に、有罪/無罪を断定する資料もないし、裁判記録を読み解く能力もなく、感情で、自分なりの裁断をするだけである。そんな「再審」について、今朝の新聞には、光市・母子殺害犯人の弁護団が、再審請求をするらしいことが報じられている。
先日、門田隆将の「なぜ君は絶望と闘えたのか・木村洋の300日」・・・新潮文庫・・・を読んだばかり。同じ企業の社員だった私としてのsympathy・・・涙なくして読めるものではなかった。また、良き上司に恵まれたこともあるだろう。また、「製鋼」と言う分野の、どちらかと言えば、「家族」的雰囲気を醸し出すprocessのengineerである・・・私のsympathyのよって立つところでもある。

再審請求の理由は、「生きて償う・・・」ことも否定してはならない。そんなことで、この残忍極まる殺人者の命を救うことに意味があるはずがない。言うなれば、一刻でも早く、この世から「抹殺」されるべき“いきもの”でしかない・・・とても「人間」は考えられない。みょうちきりんな、かつ半分認知症の様な弁護士が、滑稽な弁護を繰り広げたが、彼の弁護団の持つ「理念・思想」であるなら、私は、全員の弁護士資格をはく奪すべきだと主張したい。
事件が何だったのか・・・を明確にしなければならない。
事件は明確であり、犯罪者の行動も明らかであり、その残忍性も、どうしようもなく極悪非道、残忍極まるものである。そもそも、婦女の強姦の対象を求めて、水道検査員を装い、木村宅にその「獲物」を見つけたのであり、被害者の母子は、この野獣にとっては「人間」ではなかった。この母子は、人間としての尊厳すらも、この加害者によって、人間の資格を剥奪されていたのである。そして、その強姦のprocessもまた、もう人間に「業」を超えるものであり、もし、誰かが、犯行現場に居合わせたら、その場で「撲殺」しても、正当防衛の域を出るものではないだろう。
「再審」で何を明らかにしようと、弁護団は目論んでいるのか・・・これから先、ウン十年も「再審」を続けて、彼の「生命」を維持することに何の意味があるのか。
もし、この先、40年、50年の再審が続いた時、弁護団は、その生涯に満足できるのか・・・m虐めな弁護士活動を続けてきたことを恥じなければならない・・・そんな未来の時間が見えないのか・・・?一時の「有名」が欲しいが為に、汚泥にまみれて、野獣の弁護をすることの、してきた生涯の虚しさを想像できないのだろうか・・・この極悪犯罪者に感じるsympathyとは何なのか。弁護士各位の、理念・知性・思想こそが、あるいは、もう一度、国家試験かなにかで検証されるべきかもしれない・・・と、私は思う。

Law-drama・・・私の好きな映画のgenreだが、最近は、殆ど上映されなくなった。輸入されないのか、製作されないのか。残念である。そんなdramaの一つで、どうにも弁護のしようのない、弁護する価値のない被告に対して、「弁護」の放棄を裁判長に申し出るsceneが印象的だったものがある。アメリカの「州」には、その様な事が可能な州があるのだろう。このdrama、連邦裁判所までのstoryはなかったが、興味深いものだった。
最近は、検察の起訴がいろいろ取りざたされるが、これも、弁護側の常軌を逸した・・・例えば、光市・母子殺害の2審・・・弁護にも影響されているのではないか。裁判官の良識で、荒唐無稽な弁護、あるいは、弁護の必要もない弁護への対応が考えられるべきではないか。
「再審」が、なにか「正義」であるかの如き、昨今の風潮も、冤罪を防止することでは意味があっても、光市・母子殺害の様な事案には馴染まないものであろうし、馴染ませてはならないものだろう。

死刑囚の中には、立派に、自分を再生して刑場に消えた人々もいる・・・この方々への尊厳を私は、高く評価するし、裁判が、それなりに、その人間性・再生に組したのだ信じて疑わない。
しかし、殺人犯ならずとも、立派に、己を育てて人生を終わる・・・形はどうあれ・・・それは、私も望むところではある。しかし、犯罪者として裁かれる時の、裁かれ方を無視してはあり得ないのではないか。荒唐無稽に「人命救助」が、弁護の役割ではないだろう。その殺人犯の「人生」を救う弁護・・・弁護とは、かく在って欲しいと思うのだが・・・諸兄は如何?