付和雷同・・・・と、いうこと!

小樽商科大学のsports clubの学生(9人)が、飲酒・・・取り立てて言う程のことではない・・・、19歳の新人部員が急性アルコール中毒で死亡・・・こんな事件があった。
昨日と一昨日・・・NHK・未解決事件―「オーム真理教」を、視聴した。半分document、余り期待していなかったので、DVDへの録画をしなかった・・・再放送で録画してじっくりと視聴するつもり・・・が、高学歴の学生が、何故、こんな馬鹿な集団に飲みこまれるのか・・・昭和30年代にも、如何わしい宗教団体の勧誘が、職場で行われていたことを記憶する・・・共産党の党員勧誘も似た様なものだったが、昭和25年のred purgeの残響ものこっており、それほど成功はしなかったと思う。勿論、労働部の厳しい監視下にあり、あるいは、共産党の下部組織に、スパイを潜り込ませる陰謀めいた話も、幾つも聞いた。そのスパイの役割が果たせれば「社宅が貰える・・・若い人には魅力だった筈だが、私はまだ若く関心がなかった・・・」。しかし、高校生の時に、後に、広島県共産党細胞になった親友がいたことから、可なりの親近感を持っていたと、今に思う。しかし、父も、その兄弟も、可なり左翼的・・・改造や赤旗を読んでいた・・・ではあっても、周りに、シベリアに残されている先輩や友人がいたことから、共産党には、非常に批判的、嫌悪感を常に語っていた・・・私世代は、周りに、そんな大人が沢山いて、その環境が、私世代を育てていたのだろう・・・今に懐古する。

誰かに抱かれていたい。誰かに保護されていたい・・・守られていたい。薄っぺらな己に、「他人」という厚みを持ちたい。若さとは、そんな不安な年齢なのかも知れない。が、私は、高校生頃から、親との確執が、いつの間にか大きくなっていたと思う。特に、母親とは、中学生までは、常に母親の傍にあって、「仲の良い母子」として集落のなかでも、自他共に許していたのだが・・・それだけに、引揚者家族の苦しい経済状況から抜け出す為に、私に期待するものが大きかったのだろう・・・と、今に思うが・・・留守がちな親に代わって家事を切り盛りし、便所の汲み取りから、水汲み、薪炭の調達(泥棒)、そして、開墾畑の管理・・・妹も大変だったが、肉体的なことは私の範疇だった。「アルバイトをしたことがない」・・・の、私の一言に、「お前はbourgeoisか・・・」と、特攻帰りの方に言われたことがある・・・アルバイトすら出来なかった家庭だった・・・との説明に理解はしてくれたが、「だから、お前は、生煮えなのだな・・・」と、けだし名言だったと、後日に感じ入ったものだった。

「俺は違う・・・」。何かにつけて、内心で、色々なことを拒否してきた・・・表面では、従いながら、裏では、その期待を裏切る・・・相手が気がつけば、二度と、私に近づくことはない。宗教も共産主義も、私の傍から離れて行った・・・高校の親友(共産党員)の死を知ったのは、その頃だったろうか。恩師の哀悼の言葉が、耳に残るが・・・その恩師も、もういない。

「酒」を強要される・・・恐らく、殺し文句は「団結」だろう。何故団結しなければならないのか。労働者の祭典(?)・メーデー・・・最期は、常に「団結」であり、「がんばろう!」である。意味のない言葉を合唱して、拳骨を突き上げて・・・御苦労なことだな・・・私は、一度もメーデーに参加したことはない。労働組合幹部が、裏で、企業の労働部と癒着し、同意されたscheduleで行われるストライキの実態を知るのが、存外に早く・・・社会主義の幻想から早々に解放された幸福感を、今思う。

武士は食わねど高楊枝・・・・強がりを嫌う人は多い。「素直でない・・・」の一言で片づけるが、付和雷同していることへの嫌悪感を、思わず口にするのは、熱心な付和雷同・者である。
オームに集まった高学歴の若者も、小樽商科大学の19歳も同じだろう。参加するまでは、此処の理念があり、あるいは希望があり、夢があった・・・それは、他人と同じものだった筈はない。夫々に違った「夢」、「希望」を持ちながら、一つの行動を共同で成就するのが、groupの理念でなければならない筈のものが、全体の幻想の中に飲みこまれてしまう。それが、オームであり、大学生の「飲み会」なのであろう。
「アイツは協力的でない・・・」、「お高く止まっている・・・」。そうなのだ、協力と言うことの意味が分からないmemberに協力することほど危険なものはない。隣人が信用できない・・・いや、信用されるべき理念も理性も、そして、相互理解を助ける知識ですら不足しているのである。本来なら、唾棄すべき仲間に、唾棄されるべき対象になるべく、己を貶めているのである。

「仲良く・・・」。これ程危険なものはない。仲良くしてはならないのである。常に、相手の中に、とっかかりを見つける工夫、その真剣さがあってこそ、相手を肥料に、己の成長があると考えるべきなのである。
相手の飲みっぷりが分からなくなる程に己が酔って、何の飲み会か・・・相手を識る・・・この意識があれば、飲み方も、飲む量も、相手や周りに強要されるべきものではない・・・それが分からなければ、大学生ではないのである。相手に飲みこまれることが「成長」だと考える浅はかさ・・・愚劣としか言いようがない。
オームもしかり、釈迦の経典をどの様に理解・解釈するかが問題なのではない。自らの理解を獲得する努力の中に、己の「命」を置くべきなのである。他人(例えば、朝原彰晃)の理解の為に、己の「命」を差し出すことではあるまい。大学で学ぶことが、他人の脳に虜にされることではないだろう。己を、己らしく確立する努力が「学ぶ」と言うことではないのか。

「団結」・・・これほど怖い理念はない。団結してはならないのである。団結出来なければ、明日があるだろう。団結してしまえば、「命」は其処まで・・・存在する価値すらない。「絆」の脆さは、昨今の「瓦礫処理」のnewsの中に明らかであるが、「絆」が、団結であると勘違いした脆さとも言えるのではないか。「絆」とは、個々があっての絆である。諸行無常・・・それを自覚して、差し伸べる「手」、述べられる「手」・・・それが「絆」なのであろう。「瓦礫持ち込み反対」のシュプレヒコール・・・・これが、「団結」の様相である。

誰かが躓く・・・それを蹴飛ばして迷惑だというのが、「瓦礫処理」への協力の拒否なのではないか・・・躓いた人、転んだ人が、立ちあがれる様に助ける人がいて・・・その社会が健全なのではないか・・・「団結」の名の下に、強きに付き、弱者を強引につき従える・・・付和雷同を強制する・・・何がしか、この列島のethosであるとも言う。
一本の流れを共有して稲を育てたethosだと言われるが、一本の流れを共有しても、稲の育て方は、人それぞれだったはず・・・「多種」の存在が、干ばつに耐え、冷夏を生き抜き・・・品種の、絶えまない改善によって、今日の「稲」の存在を可能にした・・・付和雷同は、決して、この列島のethosではない・・・集団で海に飛び込む鼠でなかったことが、今日の文明を誇っている・・・そのことを忘れてはならない・・・私は、思う。