国家の責任とは・・・国民の責任・・・のこと・・・

事故調査委員会」の参考人質疑・・・菅直人・前総理に至って、質問が尖鋭に傾いているのを感じるのは、何がしかの彼の在任期間の、彼のmannerに関係するものがあるのだろう。私とて、彼の、国会議員以前の言動への反発があったことは隠し得ないと感じる。傲岸不遜・・・市川房江という、大物・婦人政治家の陰に隠れてのperformanceだけが目だっていたからである。
原発meltdownの際の政府の不都合な行動、あるいは対策・・・私は、初めての体験として、こんなものだろう・・・とは思う。せめて、事故対応のsimulationが、初歩的なものであっても可能なsystemが、存在していて、多少なりとも訓練が出来ておれば、これ程の大災害にはならなかったのではないか・・・恐らく、スリーマイル島の事故については、simulation systemが存在しているのではないかと、私は推察する・・・人間は、訓練のないところ、無知なところでは、何もし得ない生き物なのである・・・犬猫と変わらない、いや、劣るのかもしれない。文明と言い、文化と言うが、それ自体が先人の知恵であり、その中で育った人間が、次の災害、accidentに対応できる人間を生みだすのである・・・と、私は考える。

安全神話」と言うが、盲信と言うべきものだろう。知識のないところに安全はない。訓練が行われていない「安全慨念」は空論である。そして、知識がありながら、それを知ろうとしないことは、傲慢である。それは、その知識へのaccessを怠る根性は怠慢でもあるだろう。勿論、北部九州でも例外ではない。地震津波だけでは勿論ない。河川の氾濫への対応への怠慢は、日常の風景の中に多々あるのであり、この風景が、次の惨禍の予兆でもあると言えるだろう。

菅直人の心根の貧しさは、自らが「反文明・論者」でありながら、総理大臣の椅子に座ったことであると、私は思う。「私は技術者だ・・・」は彼の口癖だと、風評に聞く。技術者なら、文明に関して、謙虚であるべきで、ON・OFFで物事を判断すべきではないし、発言すべきではない。その因果を見極め、その相互性を観察し、判断して論じるべきなのである。その彼が、原発事故発生時に、全てを、自らの判断で解決出来る、原発の暴走を止めることが出来ると判断していたらしいことに、彼の資質の不足を、私は思う。
重ねていえば、日頃から思考の範疇にないことに、俄かな判断を下してはならない。専門家に任せて、旨く言っても、結果が不味くても、泰然自若として、その結果を判決として受け止めるべきなのである。電話を掛けまくり、現場を叱咤激励し・・・恐らく、彼の発した「言葉」は、現場を混乱させ、周辺の人々を惑わせ・・・何の役割も果たせなかったのであろう。Populismの可能性を探り、そこに焦点を合わせて論を戦わす、論を主張する・・・これは市民活動家の得意とするところである。しかし、抗議と反論(反対)だけであり、問題の解決には全く資することがない。戦後の、政治的歴史が貧しいのは、左翼と言われる日和見主義、populismの行動が、mediaに賑々しく喧伝されたことにある。国民は、批判、反対の主張にだけ耳を傾けていれば、その批判・反対の主張される文明が具現化するkじょとで、豊かになる日々を享受することができたのである。そして、それがethosかした現状がある。
閑話休題・・・「年金問題」、そして昨今の「生活保護給付・不適正給付」など、国民総背番号制への執拗な反対を続け、結局断念に至った当時の、反対の首謀者・左翼の罪は重い・・・と、私は思う。住民基本台帳Card・・・運転免許証を保持しない私は、便利に利用しているが、これとても、左翼の執拗な反対が今日までも、執拗に続けられている言う。

原発事故、その後の対応は「国家の責任」である。菅直人ならずとも、与野党の政治家・国会議員の弁舌である。その国家とは・・・つまり、無・人称なのである。彼らが、せめて議員バッジを付けている己の責任だ・・・との自覚で言っているのであればまだしも・・・己の責任ではないと言っているのである。
また、我々市民の側も、なんとなく、現役の宰相・内閣の責任を言っていると思ってしまっているのではないか。事故は、確かに、菅内閣で起った。しかし、原発を建設したのは自民党政権下である。「国家の責任」と言うは、常に、責任を負うべき実体はない。

そうである!・・・・国家とは国民のことである。その必要性を生みだしたのも「国民」である。そして、その安全性への関心が薄かったのも、対応への無関心も・・・その基は「国民」にある。なにしろ、電気を消費するは「国民」なのだから・・・。「節電」と言うも、隣の人が、電気を使わねばよいのであり、現在の電気が足りれば、以後の世代が不足する事までは責任を負わない。
日々に興じている文化・文明も、現状維持で良いのであって、明日への発展、拡大は必要ない。CO2の増加も、今生きている「私」にしか関心がない・・・使わない原発[文明]に発展はないことには無関心・・・これらが、短期間でも、この国の宰相だった人物の正論なのである。彼が、「国家の責任」と云う時、その「国家」とは国民のことであり、己の宰相としての資質ではない。
Media、マスコミは、この元宰相の一言を是として、特段の評論も批判も加えていない・・・読む価値に値しない紙面、見るに耐え得ない「お馬鹿」番組のTV・・・これこそが、電気の無駄使いであることを自ら忘却しているのである。

国家の責任とは、君の責任であり、貴方の責任であり、私の責任である・・・菅直人に言われるのが悔しい!