瓦礫受け入れ賛成;80%・・・を、喜ぶ!

今朝の一面・・・西日本新聞・・・表題の活字が躍っていた。北九州市民の良識の表明と私は受け止めたい。記事の中には、過去の郊外都市としての苦しみ、そして、其処からの脱却の努力・・・歴史を知る人には、壊れた環境の改善、脱却が如何に難しいか・・・そして、市民の、政治的良識が求められるか・・・良く分かっていると、私は、記事を理解した。つまり、北九州市市民の、公害・literacyの素晴らしさである。そして、この街には、随分長い間、「カネミ油症」の暗雲が止まったままなのである。この食品が、ある意味で「贅沢品」として認識されていたことが、市民の「食品公害」としての認識を難しくしている・・・らしいと、私は認識している。そして、発症の個人差が大きいことも、解決への歩みが進まない原因でもあるだろう。私の知る患者・同僚も、一家4人で食しながら、発症したのが父親だけ・・・DNAとしての遺伝は、立証されていないと思うので、油断はできないのだが・・・。

恐山・院代の、南直哉さんは、「大丈夫か!・・・大丈夫ですか?・・・」と、声を掛ける、手を貸すことが、他者との関係を充実させることだと、先日のBSフジ・プライムニュースの中で語っていた。「絆」とは、その様な人間の関係を言うのだろう。危ないから、汚染されているから排除する、排斥する・・・そこには、「物」のことではなく、「人間」が含まれているのである。科学・文明・・・とは、神誓ってのperfectな安全を保証することは不可能だろうし、よしんば、神が保証したとして、それを人間の身で知り、理解することは不可能だろう。人間のことは人間が理解し、解決しなければならないのである。

記事の中でも、政府・行政への信頼の不足が、解決への道を遠くしている・・・と、論じているが、我々が、「ハンセン氏病」の人々を如何に差別して来たか、また、今もまだ、その心底でさべつしているのではないかとの自問自答から逃れられないことを忘れた議論であろう。われわれは、観念的に思いこんでしまったら、そこから脱却するに非常な困難を要する・・・その自覚の不足なのである。そして、根底には、他人を無視することは、その他人を殺すことになる・・・事への意識の欠如に気付かない己がいるのである。
完全な安全はあり得ない・・・これが、我々の住む世界である。だから、諸行は無情なのであり、無情であればこそ、「絆」が、それを補って、我々を生かしめているのであろう。「市民プロ」という市民が、彼方此方の、反政府的campaignに顔を出し、その激しい行動で、自分達を、正義漢としてappealする・・・捕鯨望外の輩と何ら変わらない・・・沖縄問題が、沖縄への本土の人々のsympathyの形成を妨害し、結局、問題解決を送らせている・・・とは、識者の何人かが語っているところである・・・が、余りmediaには登場しない。

安保騒乱の前夜、良識は、後楽園で野球を楽しんでいる・・・との談話で非難された総理大臣がいた・・・尻すぼみになった、安保騒動の結果を見れば、案外に当っていると思わざるを得ない・・・と、私は思う。一度、ある方向に走り出した社会のsystemは、容易には方向の転換ができないし、その論理も、全体を変革することは難しい。それにイラつくなら、革命しかないのである。その革命ですら、一定の落着きを盛るまでは、時に一世紀を要し、あるいは100年を得ずして崩壊する。
イギリス、フランス・・・そしてロシア・・・は、そのサンプルを歴史に残し、中国は、その最中にある。「市民プロ」に振りまわされている間は、その市民は、まだまだ未熟ということだろう。また、反動的危機を内蔵していると、自らを警戒すべきであろう。

瓦礫処理賛成=80%・・・・瓦礫の処理が大きく前進することを期待すると共に、新しい「市民感覚」の誕生を喜びたい。