捜査の不手際・・・手中の宝を逸す・・・

菊地直子を確保すれば、その網に、「高橋克也」を、殆ど同じに逮捕できたのに・・・この国が、スパイの天国になっている、大きな理由が、mediaの節操のなさ、そして、国家・保安についての理念の全きの理念の欠如であり、スパイ防止法の制定すらさせない・・・実体にあることが、如実に見えた、今回の「高橋克也」逃走劇ではある。
結論を言えば、鳥瞰的な、操作手法が確立していないと言うことだろう。目の前の、敵の小部隊に突然襲い掛かって、自らが全滅する、あるいは、敵の大部隊の反撃を喰らう・・・戦国drama、戦争dramaの定番の様なstoryを想像してみると良い・・・自首して来た真犯人を追い返したり、相手にしなかったり、警察官、捜査官の、日常的な意識が、プロとしての自覚から遠のいている・・・余りにも、普通の市民になり切ってしまっている・・・と、言うべきかもしれない。一面で、好ましいことだが・・・権力を降り回さない、権力者意識を払拭している・・・その反面で、本文とすべき役割、任務への意識が希薄になる・・・一つの、隘路ではあるだろうが、我々市民も考えなければならない事柄ではある。
「知りたがる・・・」は、市民の習性ではある。言葉を変えれば、愚衆的、大衆的市民に堕している己への反省が、「私」と言う「市民」に求められる時代にあるのだろう。「物見高い」・・・民主主義とは、その様な市民の存在なくしては存在し得ないものではあるだろう。
今回も、市民は誰しも、「菊地直子・逮捕」のnewsを聞きたがるだろう・・・との、mediaの思い込みである。「菊地直子」で、問題が解決するのなら、それで良い。しかし、その背後に、「高橋克也」と言う本命が存在していることmediaが知らない筈がない。現場に張り付いている担当・取材記者が知らないことを、あるいは、mediaのdeskが知らないのは、職務怠慢であり、deskとしての資格はない。Media自身の腐敗でもあるだろう。
高橋克也が、その面相を変えていることも、他人の名前を称していることも、菊地直子は知っていた。菊地直子と同棲していた男性も、知っていた。知らなかったのは、mediaと捜査当局だけだった。菊地直子の逮捕で、相手の旗本を落したと思う浅はかさ・・・10年以上も、同じ手配写真を張り続けて「事」足れりとする心情のしからしめるところではあるだろう。
川崎市辺りに細んでいる・・・と、推定するなら、働く可能性のある企業・商店の従業員の身元を、その企業の了解を得て調査する位の努力があっても良かったのではないか。調査を嫌がる方には、改めて「住民票」を取り寄せて頂き、それを見せて貰う・・・不可能ではあるまい。
程なく、高橋克也も逮捕になるだろう・・・しかし、この教訓は大事にして欲しいものである。科学捜査は、日々進歩していると言う。私も、CSIやクリミナルマインドなるDVDを楽しむ日常に戻ろうかなとも考える。しかし、市民の周辺に、危険が迫っていると・・・市民を恐怖の貶める様なcampaignは止めて欲しい。極秘捜査が行われても、善良な市民が恐怖を感じない捜査、あるいは報道が求められていると考えるべきである。
市民感覚では、「オーム」は終わっている。だからこそ、地道な捜査が続けられるべきなのであり、「オームの残党」への監視が続けられるべきなのであり、市民の、僅かな不審が、新たな危険・危機の摘発に繋がらなければならないのである。
「今、そこに在る危機」・・・映画のtitleで済ませてはならない・・・私は、思う。