「死刑になりたい」症候群

刑務所を出所特後の男性(36歳)が、大阪の繁華街で、無差別殺人・・・理由は、「死刑になりたくて・・・」と云うもの・・・報道。
ワイドショーのcommentatorは、「防ぎようがない・・・」の一言だが、果たしてそうか。夏目漱石が言う様に、「この世(社会・世間)は、人間が作ったものであり、人間が、人間の為に、運用しているsystemである・・・極めて、政治的な装置・systemと考えるべきなのだと、私は考える。「対処の仕様がない、方法がない・・・」と云うのは、「無防備都市への願望」であると、言っているに等しい。
Newsを聴いた時の感想・・・・「辻斬りではあるまいし・・・」。そもそも「廃刀令」が必要だったのは何故か・・・幕府の消滅で、「帯刀」の意味が消滅した時の「刀」の「意味」を新政府が考えての処置ではあったと思うが、その新政府の要人が、元・武士であり、中には、攘夷だの佐幕だのと、敵対する勢力・個人との闘争の渦中にあったことを考えると、「毒」を以って「毒」を制した、高い理念であったことが伺える。
幕藩体制で、武士の刀が、妄りに凶器であった分けではない。無用の切り合い、殺人・・・辻斬りの様な・・・は、厳しく罰せられたのであり、安っぽい時代劇の様な様相は殆どなかったというのが、その統計からも伺えるのだと言う。因みに、鬼平犯科帳も、当時の町奉行所の与力、同心の方には、「歯止め」が施されていて、人を切ることは不可能だった事情がある。そこで、吉宗の政策として誕生したのが、「切り捨て御免」の「火付け盗賊改め」であり、町奉行所との関係は、アメリカの、市警とFBIの対決に似たものだったと言う歴史学者もいる。江戸の治安が、非常に軽微な警察力でことたりた事情には、武士の矜持が欠かせない・・・歴史の正しい理解だと、私は思う。
余り、dramaに登場しないが、「関八州」がある。関東一円のFBIの様なもの。あまり良い評価は残っていないのではないか・・・広域捜査を、数人の「八州役人」で、取り締まるのだから、どうしても、地元の、比較的評判が良いと思われる顔役。ヤクザに頼らざるを得ない。「ミイラ取りが、ミイラ」になる隘路を避けることは難しかっただろう・・・私は思う。
そして、比較的軽微、あるいは、事情止むを得ない状況が在る時、罪人は、「人足寄場」に送られる。山本周五郎の「さぶ」は、そこに送られた青年と、彼を取り巻く友人の心改まる青春小説であるが、そこに介在する「大人」の役割を読み飛ばしては、読んだ事にはならない。少なくとも、40歳超で読む時は、自らの覚悟を再確認する為の読書が要求される・・・名作である。
36歳の男も、直前に「knife」を購入している。自白では、「殺人・・・死刑になる為の」を志して購入している・・・つまり、金物店、コンビニが、「殺人者」の便宜を図るsystemに変じていないか・・・私の疑惑である。特に、survival knifeに至っては、必要があるなら、厳しい規則、法律で、非常に狭い限定で以って販売されるべきではないか・・・アメリカの銃の販売・購入が、事件発生毎に厳しくなっていると言うが、日本の「刃物」販売は野放しに近い。日本は、「刃物犯罪」のメッカに近いのではないか・・・。
この犯罪者も、彼の願望も虚しく、「死刑」にはなるまい。無期懲役だろう。特に、裁判員裁判になれば、裁判員の良識として、意味のない「死刑」は科さないだろう。私が裁判員なら、その様な判断をする。何故なら、「死刑」の意味がないし、「死刑」が、彼をして英雄化しかねないからである。
TVのcommentatorは、「防ぎ様がない・・・」の一言だが、余りにも「軽率」である。防ぎ得ない様にしているのは、軽薄な人道主義・・・以外のなにものでもない。刃物の販売を、生活を不便にする位の制約の下で許可する。極端なことを想像すれば、誰が、どんな刃物を、何時購入した方。せめて、店頭に明らかにする・・・刃物の種類によっては、「顔写真」も公表する・・・少なくとも、その付近の犯行は防げるだろう。
また、車両、あるいは、タクシー、公共施設、商店街等には、刃物の「検知器」を設置して、多少の過剰防衛は、我々も我慢する・・・我々の意識の変革も必要になるだろう。「安全」とは、ただで手に入るものではない・・・・この意識の敷衍こそが、防犯の決め手になるべきだと思う。
「脱法ハーブ」、「刃物」・・・・再度「夏目漱石」を出すが・・・「我々は人間の作った社会・世間に住んでいるのである。その社会が「住み難い」と云って、何処へ行こうというのか・・・」。所詮、自分達で対処しなければならない。その時に、時として妨害になるのが、理想主義者と徹底した個人主義である。前者は、全ての行動を善として、全ての犯罪を許す・・・そして、世の制約を排除する。そして、後者は、弱肉強食・・・弱者を犯罪的存在とする。この両者に存在する我々市民が、時に、この両者の言動に賛同するpopulism政治家を生みだす。刃物社会の弊害が除去できない我々の社会であり、銃・社会からの脱却が出来ないアメリカが、その事例である。

「社会が悪い」、「社会の病理」・・・等々、評論家のcommentが、TVの画面に言われるだろう。まるで他人事の様に・・・・人間の社会は、「悪」・・・生命を危険に貶める・・・は、「法」で縛る以外に、その影響を排除することは不可能である。そして、その「法」は、少なからず、我々市民を束縛する・・・その我慢は、命との交換条件である。「善人ぶっている「私」が、住み難い、危険な社会(世間)」の原因になっているかもしれない・・・少しだけでも考えるべきだろう。