原田正純氏・死去・・・77歳・・・・・我々は、もう絶対に忘れてはならない・・・・!!!!!

我々は、
  もう絶対に忘れてはならない!!!!!
大きな仕事を為し、まだまだ、その仕事が終わっていないのに・・・77歳の年齢は若すぎる。彼の、水俣病との関わりは、感激的であり、日本中を敵に回しての地道な、調査・研究も、大きな、既存のacademicを敵としながら、進行・発展したものである。その彼にして予期しなかったものが、「胎盤遺伝」だった・・・彼の敵が、せめて半分でもあったら、また、彼を後押しする「政治」が、「academic」があったら、この「胎盤遺伝」も、もう少し発見が早かったのではないか。さすれば、昨今の、二世、三世への影響も大きく軽減できたのではないか・・・と、私は思う。彼は、熊本大学では、「教授」になれなかった(のだと、思う)。彼の活躍をTVのdocumentaryに視聴し、その著書に触れる度に「何故だろう・・・」と、首を傾げたものだが、彼の中に、「教授」等と云う、飾りは、無用なものだったのだと・・・彼の「100年interview・・・NHK」は、私のlibraryとして、最高の価値になるものである。
昭和30年代初頭・・・湯の児温泉、黒髪・・・等々、有明湾を囲む沿岸に、「奇病・・・珍しいという意味」の発生が、mediaに報じられていた。当時の新聞を丁寧に見れば、記事が存在するはずである。小児麻痺に似た症状だったと、記憶するが、まもなく消えた。その数年後に、私は、「水俣」の病気の方々の映像を写真に知った。労働組合のカンパ等が行われる様になったからだと記憶するが、直ぐにしぼんだ・・・三池闘争の煽りを喰ったと云う事もあるかもしれない。しかし、北九州の大企業に、洞海湾の汚染は他人事ではなかった筈である。
組合紙に、水俣の事も、三池の事も、殆ど論じられることなく、企業の現場では、三池闘争の過激ぶりが、批判的に話題になっていただけである。私とて、父や叔父が、九大の「向坂教授」の扇動だとの見解を崩さなかった・・・その陰では、水俣の奇病(差別用語だが・・・)の周りで、水俣チッソの責任を回避するべく、有名教授連による、色々な原因が論じられていた。が、何れも、現地を見る事もなく、机上の空論に堕していたのである。その間を、若き「原田正純」とい学研が、具に、現地を観察し、患者に触れて、殆ど、彼のみが、「チッソ」を疑ったのである。熊本大学も、及び腰ではあったが、正面から彼に反論はしなかったと、記憶する。その間にも、患者は増え続けた。
北九州の洞海湾・・・カモメの姿に、「これほど汚れた湾の魚を喰っているのに、元気ではないか・・・」と、今に思えば、無責任な会話が、囁かれてもいたことを思い出す。「魚」と云う食材が、今日の様に、広く、海外にまで食される現代なら、敏感に政府も地方行政も、あるいは、企業も労働組合も反応しただろう・・・しかし、地産地消の傾向が強かった当時、汚染魚介類に依る、食品被害は、大きくは広がらなかった。それが、東京に居て、京都に居て、況や熊本[都市部]に居て、水俣の魚を食する機会は少なかったのだと、私は思う。
因みに、日本の食品、薬品被害は、政府関係者、大企業社員(勿論幹部も含めて)、あるいは、教育関係者等に、被害者が出ないのが不思議である・・・これを研究した論文があれば、読んでみたいものである。北九州の「カネミ油症」は、私の知る限り、無言の圧力で、企業内(労働組合も含めて)のもみ消しが行われたと、その個人の名誉にかけて断言できる。この「食品」が、当時、贅沢品として捉えられていたことにも、大きな原因があるとは、私も思うが・・・
そして、新潟・イタイイタイ病・・・つまり、化学企業の廃水が関連する流域で発生・・・その時、水俣病の原因は、チッソの廃液処理にあることが、殆ど立証されていたと思う。
原田正純氏は、余りチッソを責める発言はしない・・・と、感じている。況や、現・原発拒否はの様な言動は取らない。私は、我々が、学ばねばならない、彼の遺産であると思う。つまり、原因を早く突き止めること、そして救済策を講じること、更に、拡散を防ぐ事・・・が、彼の学研としての基本的mannerなのである。ちなみに、水俣以後の、世界の各地に報じられた「有機水銀公害」は、比較的小さな被害の中に、対策が講じられる様になっている・・・と、聞く。つまり、水俣の被害者は、世界の広がったかもしれない、多くの、潜在的被害者を救済したことになるのであろう。
人間は、経験・体験しないことから学ぶことは不可能である。せめて、論理的に学ぶ機会が与えられれば、それは幸いであるが、広範囲な経験として学ぶことは、やはり不可能である。むしろ、論理的に学んだつもりになって、現場を忘れる危険性が大きい。
足尾銅山・・・「田中正造」が蘇えらせ、荒畑寒村の名前がcomebackさせたのも、水俣の功績と言えば功績である。今、足尾の山々が蘇えりつつある。水俣が、次の「公害」まで忘れられることがあってはならない・・・・「忘れられる・・・」と思うから、今、激しい・原発allergyが、吹き荒れているのである。
肥料、化学繊維は、戦後の日本の大きなenergyを生みだした。水俣病も、その成果の陰で、生じるかもしれない「害」を拡大していたのである。戦後の経済成長が、大きな飛躍をせんと、「ホップ、ステップ、ジャンプ」の「ホップ」の段階で、その姿を現していた。しかし、人々は、無知であり、ある人は隠し・・・その姿が見えた時、言を弄して、虚偽を唱え、被害者を増やし、研究者は、対策への学研としての誇りを捨てた・・・P・C・D・A・・・「P」は、現実をきちんと観察る事、論理的な真実を伝えること。「D」は、為すべきことの合意を、虚偽なく得ること。そして、「D」は、為すべきこと為すこと。例えば、学研・原田正純が、患者の手を取って慰め、話を聴き、の生活の様子を観察し、「病」が、生活の中から発生すると言う「真実」を貫き通した発言を続けたこと。そして、「A」が、企業の責任であり、研究者の責任も免れ得ないこと。原田正純の生涯が、残した重大且つ偉大な事績であろう。
我々は、
   もう絶対に忘れてはならない・・・・!!!!!