ギリシャに広がる「地域通貨」

今朝の、column newsに、ギリシャの各都市で「地域通貨(TEM)」が広がりを見せていることが報じられている。私が、「地域通貨」なる言葉を具体的に知ったのは、浜矩子著の「“通貨”を知れば世界が読める」である。この著、一ドル=50円時代とは、・・・と、問うてもいるのだが、それを論じる程の力は、私にはない。
その中に紹介されているepisode・・・イタリアのある小さな町で、小銭が不足する事態が発生。困った商店街の店主は、お釣りに「チョコレートや飴玉」を、客に渡すことにした。これが、結構、客に喜ばれた・・・が、スィーツには、賞味期限等の隘路もある。其処で、知恵ある店主達は、「引換券」を渡すことにした・・・そして、「地域通貨」に発展したのだと・・・お金(通貨)は、所詮「共同幻想」の代物である。一定範囲で、「通貨」として認定されれば、それは「通貨」の資格を得、つまり、「おかね」になり得る・・・のである。そんな基礎知識を以って、今朝の、ギリシャの、地域通貨のnewsを読めば、何らの迷いも生じない。生れるべくして生れたのである。この通貨の名称は「TEM」・・・現在の所、「1EURO=1TEM」、日常の買物は、これで十分とのnewsの記事である。
通貨は、色々な手段、形を経て、国境を超えることができる・・・況やEUROである。国家の財政等には、何の関心もなく、利益になろうがなるまいが、あるいは、自国、あるいは、近隣国家の経済を破壊する事も厭わない・・・つまり、EURO(お金)は、国境を越えられるが、国家主権は、原則として国境を越えられない・・・越えれば侵略である。
今、ギリシャ、イタリアの経済危機・・・これを、フランスやドイツの主権で、あれこれ出来ないのである。国家の財政は、国家の主権である。可能なのは、相手国家の経済systemを完璧なまでに破戒することだけであり・・・相手を本気で救済しようと思えば、自らが、相手の術中に嵌ることしかない。
今回の選挙で、財政健全化への緊縮財政を支持するか、能天気な放漫財政を続けながら生き抜くのか・・・左翼感覚のpopulism・・・国が違っても、政権欲しさの強欲政党の取る方法は同じである。私は、良識ある選択をするだろうと予測しているのだが・・・その根拠が、newsに報じられた「地域通貨」である。浜矩子の著書では、小さな地域通貨は存在しているのだそうである。我々のレベルで言えば、東京都心と、私の住む・福間で、同じ価格の大根が売られているのが不思議なのである。全国流通に乗り、日本国銀行発行の通貨を前提とする限り、「全国統一」は常識であっても、東京都心と福間では、大根の価値は異なるはず・・・・
大根を売って、隣の田圃の米を買う・・・クルマや、電気製品を買う「貨幣」を使う必要はあるまい。日本銀行の保証も必要ないだろう。当面の、物・物交換の手間が省ければ、それで十分ではないか・・・ギリシャ地域通貨も、記事を読む限りでは、そんな感じだった。
地域通貨と円、あるいは、地域通貨とドル・・・その必要性で、lateも決まるだろうし、その地域の経済情勢、発展状況、あるいは静謐状況で決まる筈である。地域通貨の発行量の「増」は、その地域の経済活動の活発化の尺度であろうし、地域通貨の低調さは、その地域の、文化的貧しさの表現でもあるだろう。
政権の行方とは別に、ギリシャの、各地域が、独自の判断で生きようとしている。Populism政権の誕生が、例えあったとしても、短命に終わるだろう。また、日本の民主党の様に、変節するのかもしれない。それでもpopulismから抜け出せなければ、それは、国家の衰亡を招くだけであり、他の国家主権に国境を明け渡さざるを得ない・・・それだけの事である。