一任ということ・・・

実は、これほど無責任なことはない。団地の「総会」・・・年に一度、年度初めに行われるが、決めなければならないのは、「今年度の役員と予算」・・・三つの区で、構成する自治会(連合会)だから、各区の区長は、夫々の区で選出されている。3人の区長の1人が「連合会長」・・・この会長の発言から、当日の「議長」の選出が始まる。
お飾りの様な議長だから、適当にきめればいいようなものだが、そこは、建前として民主主義の手続きが必要になり・・・まず、立候補を募る。立候補がなければ、予め依頼してある人物の名が挙げられて会長一任・・・そして、形式的な賛同の拍手で議長が決まる。
お飾り議長だから、議事の内容も、殆ど形式的な質疑で議事が進行し、最後は、シャンシャンと、手打ちで終り・・・・。団地発足当時は、激しいやり取りがあったのだが、最近、数十年は、議事録に残す・・・出席しなかった人の為に、総会の様子を回覧板で知らせる為に必要・・・ことも殆どなく、自治会の存在すら、無価値なものになりつつある。
人事について、意見がでることはないが、予散や決算報告については、時に、質疑が無いわけではない。この質疑で、幾つかの冗費がカットされた、誇るべき実績もあるには、あるのだが・・・そんな記憶も、一年も経過すると、思い出す人もいない。色々な行事も、僅かなもの好きには楽しみでも、無関心も多い。かつて、発足当時の、多々の問題が惹起していたころには、それなりに必要性が認識されていたこともあるが、それも、良識に欠ける言動を宥める装置として機能していただけであり、無理やり参加させられる子供や老人には迷惑なものではある。因みに、中学生、高校生の参加は、殆どない。
Group sounds華やかりしころ、地域の公民館(地域の管理)で、エレキギター・バンドの演奏会をさせてくれとの申し出が、数人の高校生&中学生からあったことがある。しかし、周りの家々が、騒音で迷惑する・・・と、にべもなく拒否された。難聴の高齢者が、大音量のラジオで、ダンスを楽しむことには、誰も依存がなかったのだが・・・。
それらの問題が、総会で何故討論されないのか・・・反対にも挙手なし、賛成にも挙手なし・・・議長一任で決着が付けられる。そんな様子が、日常化して、自治会の活発化を望む方が無理なのだが・・・触らぬ神に祟りなし・・・
昨日の、民主党・全議員会議・・・前原政調会長に「一任」。結局、時間をロスしただけのことであり、自民、公明との連立交渉が始まれば、異論続出ということになるのだろう。議論、討論とは、反対意見、あるいは異論を、例え多数決で封じても、実行段階で、その反対・異論に正当性が伺える時、あるいは再考の必要性が認められるとき、組織のブレーキとして暴走を食い止める役割を元ものである。
政治にしろ、経済にしろ、はたまた自治会の運営にしろ、その方策、施策に間違いがあったとしても、訂正の手順さえあれば、修正の効くものなのである。「一任」とは、その可能性を封じて、「ON/OFF」で物事を進めようとする危険な行動でしかない。
勿論、「一任」にならざるを得ないprocessには、「反対」側のmannerにも原因がある。次のstepに歩を進める気持ちのない「反対」・・・これは、妨害でしかない。それを封じる為の「一任」であっても、その反対意見が、反対意見として認められる、議事の進行、運用への努力が、その「一任」の内容の発展の為にも必要なのである。
「世間」は、良くも悪くも、一時の決心で歩を進める・・・「一任」も、瞬間的な決断であり、妥協でしかない。その意味では、時間の経過を信じて、我慢すべきは、暫し我慢すべきなのだろう・・・また、それが可能な「我々」ではある。しかし、それが、民意の成長を妨げていないか・・・例えば、被災地の瓦礫の処理・・・。昨日も北九州市の説明会場が大荒れに荒れた様子・・・科学的dataを信じることが出来ない・・・それは「建前」だろう。何故なら、我々は、科学的dataを信じながら、そのdataに裏付けられて生活をしているのだから・・・。結局、この会場での粗暴なふるまい、粗暴な発言は、瓦礫処理の科学的な進歩、進展を妨げ、地域の良識の発展を阻害することにしかならない・・・結局、拍手多数と云う手段で、市長・一任の形にならざるを得ない。せめて、何に不安を感じるのか・・・それを明らかにして市長と対峙すれば、「一任」の裏に、そのdataが、生きて来るのではないか・・・・愚かな行動からは、愚かな結果しか残らない。愚かな一歩も、一歩は一歩だとの考え方も無きにしも有らずではあるが・・・・。