「人足寄場」の知恵・・・に学べ!

時代劇drama・鬼平犯科帳のfanに馴染みの深い、刑犯罪者の厚生施設だと考えれば分かりやすい。しかし、現代の保護施設、厚生施設の様な固苦しいものではない。その刑の内容も不明確だし・・・つまりは、言い渡す、吟味方与力、あるいはお奉行の度量で決まる。例えば、喧嘩の最中に、殺してしまっても、そこに情状酌量の余地が大きければ、人足寄場行きだが、悪質・残忍・厚生の可能性無しとなれば、佐渡送り、悪くすれば、「極門晒し首」となる・・・その様なsystemの中の、「寄場人足」という位置は、非常にあいまい、六法全書的な理念では理解は難しい。
山本周五郎の「さぶ」は、一人の青年の立ち直りと、かれを取り巻く友人達を描いた、青春小説だが、「寄場人足」を知る手掛かりにはなる。小説の表題は「さぶ」だが、実の主人公は「栄二」。私は、この栄二に目を掛けてやる、人足寄場の現場責任者でもある、与力・「岡安某」が好きで、この小説が世に出た頃、現場のshift managerとして、人心(現場)掌握の参考としたものである。
「人足寄場」が、どの様な所か・・・あるは、どの様な囚人が収容され、どの様な処遇をうけ、どの様に管理・監視されているのか、囚人の生態も含めて、小説を一読して頂くのが、理解を深める最良の手段だと、私は思うので、此処では、これ以上の説明はしない。もう直ぐ「夏休み」、今年も、夏休みの中の課題図書として、書店の棚に、横積みされているのではないだろうか。周五郎の小説の中では、最も息の長い作品だと、私は思う。そして、これが、徳川吉宗の治世に、火付け盗賊改め方・長谷川平蔵の発案で始まり、江戸末期まで、存在したのではないかと思うが、長谷川平蔵亡き後は、余り評価されない運用であったと、他の書の中に読んだ記憶がある。所詮は、「人」を得なければ、systemは機能しないものでもある・・・ついでに書いておく。
磯飛京三・・・先の、大阪繁華街の通り魔・犯人である。刑務所・出所者の再犯率がclose−upされている「今」に惹起した、出所直後の、凶悪な犯罪であっただけに、耳目を集めるけっかになった。我が購読紙でも、関連記事が連載されている。しかし、現状を訴えるだけで、その有効な手当については語られない。理想は、当人の、しっかりした自覚と自立なのだが、世間と云うsystemは、それを許さない。法的な裁きを受け、そして服役して、真面目に努めて満期出所してきても、世間では犯罪者のままなのである。裁判所も、刑の言い渡しをしても、その勤めを果たせば、君は無罪・・・真白だとは言わない。「前科者」というレッテルは、彼が生れ、育ち、生きた世間が張ったものであり、それをはぎ取るsystemは存在しないのが、世間と云うsystemなのである。
磯飛京三・・・両親は既に無く。兄二人には見放され・・・かつての知人のお店で働かせてくれと頼んだが、この時勢である、叶わなかった。そして、大阪に職が見つかったと新幹線に乗って、二日後に、件の犯行に及んだ・・・。刑務所に舞い戻る為に・・・。
人足寄場に馴染まない「栄二」に何かと目を掛ける高齢の収容者・・・彼は、よんどころない理由から兄を殺してしまった故に、ここに、もう長くいるのだが、此処を出る意思はない。つまり、ここで、一生を終ろうとしている老人である。利発な栄二にも彼の心情は理解できないのだが、耳は傾ける。周りの囚人達を見、また、彼等の中の弱肉強食的な関係を観察するなかで、色々な理不尽を目にする。その栄二の心情を宥める、与力・岡安の台詞は、聞かせるものがあるが、それは諸兄自身の読書として欲しい・・・私も、当時、こんなセリフが喋れるmanagerでありたいと、思ったものである。
磯飛京三に戻る・・・刑期満了・者に、生きる場を与える・・・自力更生を求める現在のsystemに、無理がある・・・つまり、再犯が、生る手段になるような現行systemへの反省であり、systemの改造が、考えられるべきではないのか・・・。経済事犯の様に、次の犯罪の手段を考える為の「刑期」つぃての刑務所の効用に、磯飛京三の様な、ある意味正直、小心者を、一様に適用することへの是非が、厳しく論じられるべきだと、私は考えるのだが・・・。
社会の効率化で、世間は弱肉強食化することは止められない。犯罪は、その隙間を狙って、人をして犯罪者にしてしまう。その加害者は、効率化の世間の波を、上手に、悪どく乗り切っている、善人面をした私達なのかも知れないのである。犯罪者を再犯者を責めるなら、自らが、その凶刃に倒れることを厭わないなら、現・世間の維持で事足りるだろう。しかし、それは、余りに傲慢ではないか・・・つまり、我々は、他者を罪人にしながら、その道に追い込みながら安穏を貪っているのかも知れないと言う反省である。
逮捕して、裁判に懸け、禁固刑で、しばし、目の前から排除して安心し、その安心を継続する為に、厚生の機会を与えない。「正常人」の傲慢というものなのだろうと考えるが、これが、犯罪者の増加を抑えていると言う論者もいる・・・が、寂しい話ではある。
恐らく、収容者の身体に、内心に押された「犯罪者・前科者」の押印は、消えないのだと思う。しかし、痣、ニキビ程度のものとして、絆が不可能かと言えば、そうではないだろう・・・苦労はあるにしても・・・多少問題を含む発言かもしれないが、彼等を怖れさせない環境、あるいは、その様な感情を周りに醸成する様な環境を、systemとして構築すること・・・その実例が、長谷川平蔵の意向が生きていた時代の「人足寄場」であるかと私は思う。
別の視点からは、彼等を差別し、囲い込むことになる。しかし、その圧力を跳ね返す努力こそが、真の意味での贖罪になるのではないか。職も与えず、暮らせる環境も与えず・・・餓死するか、犯罪に走って命を支えるか・・・そんな選択肢しか与えない現状が、人道的であり得るのか・・・。私は疑問だと思う。
磯飛京三の目に、「終身刑の独房」は、極楽に見えるだろう。しかし、そこに至るには、何人の命を、どんな方法で殺めればいいのか・・・そんな事を、出所者に考えさせる現行systemが、真に人道的として評価できるのか・・・私は疑問に思う。