沈みかかった舟に乗る人達

噂であったり、あるいは気配であってり・・・程なく寿命を迎える組織も、消滅の寸前まで、その体制は維持されなければならない・・・そして、その週末は、知る人にしか知らされない。しかし、それを察知できなければ・・・新入社員は枠外としても・・・大凡、大人とは言えない。しかし、「それでも行く・・・」という勇気を大事にする人もいるし、最後に泣きを見て絶望の悲嘆に暮れ、その憂さ晴らしに、己の人生を失う人も多い。
民主党の集団脱党・・・政治理念が相入れなければ、無理もないと言えなくもないが、そもそも、無理があってmanifestを金科玉条・・・正しいものとして、その実施を主張して、何とか、政権維持を計りながら、次の総選挙で、その結果を国民の判断に委ねようとする党・執行部に抵抗する勢力の脱党である。そもそも、そのmanifestの実行には、16兆円の予算が必要とされた・・・それは、無駄を省けば可能との計算だった・・・此処までは、先日までは野党だったことを鑑みれば、納得出来ないでもない・・・小沢一郎は別枠として・・・。しかし、大騒ぎで、鳴り物入りで、行った「仕分け」で、捻出出来たのは、2兆円・・・これでは、manifestを完全実施は不可能である。其処で、政策の方向転換・・・一先ず財政を健全化して、再挑戦としたのが、菅内閣だったと、私は理解している。自民党の大物幹部だった「小沢一郎」に、この間の情勢の分析が出来ないわけがない。また、財政の実態を知らないわけがない。「仕分け」も、完全に勝算あってのことではないだろう。しかし、5〜6兆円は可能との目算はあったのだろう・・・今でも、そう思っているかも知れない・・・私も同感である。しかし、財政官僚の厚い壁をぶち破ることは不可能だった。つまり、政治家と官僚の「脳」の構造が違ったのである。だから、大量の官僚を民主党に引き込んだのではなかったか・・・しかし、所詮は落ちこぼれの官僚である。「本丸」は、しっかりした、本物の官僚で守られていた。
年齢的に、もう後には引けない小沢一郎・・・しかし、現状では勝ち目はない。頼りは、愚弄なる国民の存在である。先に衆議院議員選挙の結果は、次の参議院議員選挙で、馬脚が露わしたのだが、ここで、己の政治姿勢を修正するには、時間が足りない・・・結局、民主党を壊すことしか、選択の余地はなかった・・・・。渡邊恒三、石井一の様な、人材が支えていれば、様相は変わったであろうが、これも、自民党政治を批判できても、自民党の組織的強さを理解しようとしない取巻き(山岡、東・・・)にちやほやされて、判断力を失ったのであろう。守るべき「一年生、二年生」の存在を忘れた、今回の行動である。
沈みかけた舟からは、鼠が逃げる・・・逃げる鼠を評価することは間違いである。しかし、鼠が逃げるということは、船が沈を目前にしていることの証である。
国際残高の数値は、私の如き国民でも理解できる・・・国外に売られているのではなから安心だとの説明も、限界がある。アメリカの債権は、その半分にも達するから、非常時には、それを処分すればよい・・・無責任な説明である。そこに、如何なる悲惨な状況が現れるのか・・・借りた「おかね」が戻ってくると考えるには、庶民の世間でも愚かである。況や、国庫の問題である。「お札」を印刷しても、denominationを行っても、物価は暴騰する・・・それこそ、貧乏人の首を絞め、焼き殺し、毒殺する様なものである。その典型が、北朝鮮なのだが・・・小沢一郎の主張は、そんな危険を孕んでいるのである。
小沢一郎・丸は、そんな危険を満載して、今将に沈まんとしているのである。政権を得て、沈没を免れようとすれば、国民無視の、財政健全化を図らねばならないはずである・・・おそらく、「おかねのない人には死んで貰います・・・・」と、云う事になるのではないか。
満蒙に、北朝鮮に遺棄された多くの日本人・・・無言の政府は、その無言の内に、「君達に、帰国して貰う必要は有りません・・・・」と、呟いた筈である。シベリア抑留の兵士、若者も、アメリカの助力と、日本の経済復興の速さがあって、多くの犠牲は避けられなかったが、帰国が叶った。しかし、彼等には、「赤」という侮蔑が待っていた・・・還ってきて貰いたくなかった日本人だったのである。瀬島龍三が、全くの無言で世を去った・・・「政治とはこんなものだよ!」とでもいう様に・・・・。
甘い汁で国民を誘い、そして果たした政権交代である。故に、毒も含んでいた。いま、その毒を出してしまおうと、野田政権が必至の努力をしている・・・その努力を足蹴にしているのが、小沢一郎一派の、悪魔舟である。
高度経済成長の時代は、一先ず終わった、今は、忍従の時期である・・・止まぬ雨はない、陽はまた登る・・・これらの箴言は、人を襲う「運」、「不運」への覚悟を要求するものである。しかし、歴史は、沢山の知恵も残して入る。「現在」とは、それらの知恵を包含し、未来への覚悟を泡sて、現在なのである。過去をnostalgicに捉え、未来に、Utopiaを幻想することの悲しさ・・・一九四五年八月一五にちは、そんな昭和初期の幻想の結果であった。それが、分からないでは、舟底に出来た「穴」に気が付かずに、甲板で踊っている大バカ者でしかない。そんな船が、今、船出しようとしている・・・騙されて「乗る」国民も多いのかもしれない・・・・そんな人間に道連れにされては叶わない・・・と、思うのだが、隣人を信じるしかない・・・これも、人間の社会・・・世間・・・なのだろうから。