大津市・少年自殺の波紋・・・・「三猿」化した、クラスメイトと教師、父兄たち・・・・

虐めと自殺の因果関係・・・そんなものが「有るのか?」、「無いのか?」・・・議論する感覚がおかしい。誰しも、傍に存在する人・命を危険に晒し、己への危険を回避しながら、一日、一日を生きているのである。よしんば、明確な因果関係が見つかった、定義されたとして、それを排除することが可能なのか・・・不可能だと予見するから、「因果関係が見つからない・・・」との、教育委員の回答になるのだろう。刑事事件として、加害者・・・と思しき生徒や父兄、あるいは教師・・・を訴追するとして、その検証に呈すべき証拠の立証と、自殺の因果関係の立証が困難・・・ということなのだろう・・・つまり、刑事訴訟法が、少なくとも学校に起因する被疑者を予定していないと言う事だと、私は考える。もし、今、書いたことをmass communicationが指摘したら、「虐め」は、殺人の有効な手段になりかねない・・・・あいまいにしていてこそ、その予防になるのだという見識も成立する・・・と、識者は考えているのだと、私は思う。
「愛が勝つ・・・」とか「正義が勝つ・・・」とか、大声で歌い、時に安っぽいメロディーに、無知蒙昧の若者の心情を擽るアーティストの罪は、存外に大きいのだと私は思うが、かつては、私もそのひとりだったかもしれないのだから、大きなことは言えない。しかし、先輩達は、そんな「甘っちょろい」私をしっかりと躾てくれた・・・冷酷なまでに・・・・。私達世代が、自らを高度経済成長の中に置いて、その精神を返りみることがなかった・・・現在は忸怩たる思いがするが、その精神は忘れていない。そして、今日の世情を観察し、批判する「私」が存在するのである。
今朝のnewsでは、「金銭」に関する虐めも浮上している。私は、「金銭」に関する虐め、脅迫があって、その上での陰湿かつ日常的な苛めに変化したのだと思う。そして、彼に虐めが集中し、誰もが、見て見ぬ振り・・・いや、目を逸らし、耳を塞ぎ、口を閉ざした・・・学校内の子供達が、教師達が、「三猿」状態になっていたのだろう。この「三猿」達は、良い子であり、学校の自慢でもあったのではないか・・・本来なら、校外に、父兄に漏らされるべき情報の隠蔽に協力した輩なのだから・・・卒業式には、「情報隠蔽」を表彰する「表彰状」が授与されるのではないか。Mediaも、その辺りまで追跡して欲しいものである。
「バカを相手の時じゃない・・・」・・・のphraseを胸の内に歌いながら、このブログを書いている。隠蔽に手を貸した子供達の心情ではあっただろう・・・虐める子供も、虐められる子供も、そして、その状況に瞑目する教師も・・・・子供たちの目には同じlevelの「バカ」に見えていたのではないか・・・・私は、そこに、子供達の失っている「もの」の大きさを感じる。少なくとも、肩を組むべき同志を「バカ」としてはならないのである。それが友情であり、大切な記憶の源泉であり、己を育てる栄養なのである・・・これは、教室では得られない。家庭と地域の、親を含む人々との交流の中で生れ、育つものなのである。しかし、いま、地域の大人達は、子供に近づく事を嫌われる・・・故に、「祭り」が、子供達、青年達に継承されている村が、TV取材の対象になるのである。何故、継承されないか・・・大人が苦痛に感じることが、子供の継承されるはずがない・・・答えは、それだけである。ここでも、「バカを相手の時じゃない・・・・」と、子供達は、大人の毒牙からにげているのである・・・そして、我が身を護るすべを失っているのである。
恐らく、この少年は、学校と云う「地獄」の犠牲者の一人でしかない。「人の死は、忘れられた時に、二度目の死を迎える・・・・」と、恐山の副住職は語っておられたと思うが、少年は、瞬間に二度殺された事になる・・・最大、且つ悲惨の極みである。
かつて、教育委員会は「公選」だった。多分に、左翼の政治的toolとして利用されることが多く、その懸念から、現行の形になった。この国の左翼が、一つの障害として残した遺跡なのである。早く、公選制に戻せと言う声もあるらしいが、先の、政権交代と、交代後の政治への、国民・市民・・・というより、私を含む愚民の対応を観察して、「まだ、無理だな・・・」との感想は否めない。今暫くは、犠牲者が続くだろう。
学校は地獄である。子供を救う「菩薩」は何時現れるのか・・・否、せめて、私達市民の中に、私の「菩薩」が現れ、私が、その菩薩に抱かれるまで、地獄から救われる子供の姿を見ることは叶わないのだろうか・・・・悲しみに耐えつつ・・・・