人災と云うこと・・・・

福島原発事故の報告書・・・新聞に発表された「抜粋」も、流し読みしただけだが、「人災」の二文字が目先にちらついて、虚心坦懐に読むことはかな無かった・・・この種のものの記事の限界でもあるのだろうが、小さな現場で、約10年間のshift managerの体験が、そうさせるのだろうとは思う。つまり、reportとは、下心があって綴られるものだからである。
文章を書くのに、脳の中を真っ白にしては書けない・・・この文章にして、そうなのである。意図、内容、主張、結果への期待・・・等々、読む側を忖度しながら、時には、読んで欲しくない対象を想像しながら、読んで欲しい人への期待が誤解されない工夫が、文章の難しさだろう。特に、ある理念を金科玉条・・・神棚に上げて語る時、それは、時に、神を冒涜する行為にもなることは覚悟の上である。
今回のreportも、「こう書かなければ、国民は納得しないだろう・・・冤罪を国民は、冤罪として喜ぶだろう・・・」との意図が見え見えである。ここにも、populismが、その空気を満たして、大衆の気持ちに迎合し、大衆を興奮させ、その矛先を東電、政府に向けさせることで、当面の民衆の気持ちを抑えようと言う魂胆なのである。
「人災」・・・と言えば、それだけでpopulismである。何故なら、人間の社会の人間の創造物で、そこに発する事故が、自然災害であろうはずがない。原発事故を、その原因に関わらず「人災」と云うのは、tautologyなのではないか・・・怪しいもの云いではあるが。
交流電源が失われた。送電の鉄塔も倒壊した。電源車も水没して動かなかった・・・故に、冷却水の補給が不可能になった。海水注入と云う方法があったが、それでは、設備全体を廃棄するに等しい。加えて、bentは、使えないbentとして存在しただけ・・・つまり、地元の心情を勘案して、filterの設置を逡巡していたのだと言う。全て「人災」と言えば、例外なく「人災」である。Reportの表現に誤りはないかに見える、読める。しかし、「人災」と云うからには、「人災」たる所以を明確に説明しているのか・・・それが怪しいと私は思う。
人災・・・そこに、事故を故意に誘因する人災であったのか、不可抗力・・・その事例に学ぶべき要因を明らかにすることの可能な人災であったのか・・・その区別をしっかりと付けておくべきだったと思う。
人工物には、事故を誘因する原因が孕まれることが明快であっても、そのsystemを連続して機能させなければならないものがある。例えば、新幹線・・・時速200キロから、現在は300キロ超・・・車体、なかんずく車輪は、それ相応の改善、工夫が、そのsystemの能力に応じてなされているだろう。また、実験で、あるlevelの安全は確認できているだろう。しかし、鋼は、鉄と炭素の混合物である。その組織、粒子の境界は、肉眼で確認するれば、「亀裂」の模様である。そして、その境界に介在する不純物が、事故を誘因する。そして、それは、railと車輪の双方に存在する。新幹線の安全が誇示されるが、何時事故を起こしても不思議ではない乗り物なのである。そして、railは、その全線を、一度に新しいものに置き換えるのは不可能と考えるべきである。
車輪は、定期点検、定期的な交換が、その点検・補修と併せて行われている。今日まで事故が起らないのは、可なりな過剰な安全意識と、system運用がなされているからである。運賃の額も、それを反映したものになっている筈である。数年間の福智山線の様に、全てを運転手の居眠りに転嫁して、車両、軌条、そして運用・運転のmanual・・・については、被害者も会社も無関心・・・に、私は感じられる・・・私の懸念である。この事故、運転手の所為にして「人災」なのではない。Speedを求めたかもしれない利用者を含めての人災なのかも知れないのである。車両、軌条・・・あのcurveが、果たして、車両の構造を含めて可能だったのか・・・の、検証の存在がmediaには語られない・・・その不思議さが、今回の原発事故のreportにも、私には見える。
設備、systemは、順調に稼働している、正確に機能している・・・その事に、次の瞬間に大きな破壊を齎す・・・事故・・・要因を孕んでいるものである。騒音があれば、それも事故の前兆、騒音・異音が全くなければ、あるいは、censorの不具合、故障かもしれなし、新しい事態が生じているかも知れないのである。むしろ、例えば、40年間の無事故の内容が、如何なる無事故だったのか、その実体を詳細に解剖するのが、事故対策のreportでなければならないだろう。関係者の枝葉末節を暴いて、それをもって「人災」と云うのでは、まさに「砂上の楼閣」的reportと言わざるを得ないだろう。
幸い、今回は、現場の作業者・技術者に犠牲者が少ない・・・即死は「無」だと聞いている。ならば、彼等の、生の声と彼等の観察、あるいは、数十年間の無事故の中の「事故」の伝承、伝説化している、前兆とその対策のknow-how等々、個々人の日誌・日記の類の記述も含めてreportに記載されるべきだったと、私は思う。
操業以来・無事故の新幹線・・・これも、「人の技」なのである。「人の努力」なのである。恐らく、「人を無駄にしない」努力なのだろうと私は推察する。福智山線の事故の背景に、運転手を粗末に遇する実体が見える・・・私は、事故の直接の原因は、この「人事」だと考えるのだが、今回、原発事故にも、同じ実体が隠れている、隠されているのではないか・・・現場の違い、それぞれの「人事」に違いなども、mediaの努力で我々の目の前に晒して欲しいと思う。

「人災」・・・このreportが「人災」でないことを願うだけである。