個人情報法と云う隠れ蓑・・・・・夜叉と菩薩と言う悪魔と・・・・

福岡県・県議の「偽領収書」に依る、政務調査費横領が、地方新聞のtopに報じられている。記事によると、主に、支援者への謝礼、あるいは、運動員への報酬、事務所の諸経費に使われているようだが、その領収書の「名前」が黒塗りされていて、県民には分からない仕掛けになっている。これが、個人情報・法の精神なのだと、記事にもあるが、文調は、疑問を呈していても、明らかな非難でもないし、厳しい抗議でもないし、はたまた、問題提起でもない。ただ、淡々と、その実体を報じているだけ・・・それだけでも良いではないか・・・との声もあるだろうが、消費税増税への議論と底流で繋がるべきが、何故か「遮断」されてしまう現実が奇怪ではある。
そもそも「個人情報」とは何ぞや・・・と、云う所から「論」を起こすべきなのだろうが、その「論」が出尽くすのを待つのは、「百年川清」を待つに等しい。少なくとも、不正を防ぐ・・・はたまた、偶然であっても、その結果が、議会政治を支える屋台骨を揺るがすことのない様に、お互いが、身を慎むことを理念として共有するべきであり、共有できない「人間・この社会の構成員」への懲罰で、その姿勢を正すべき「法」ではあるだろう。
不正な給与を手にして、「贈」の方が犯罪者であるのは当然として、「収」の方に罪無きとはしないのが、社会・世間のルールである。「知らなかった・・・」が、無罪放免の理由であろうが、その無罪放免はあってはならないのであり、その場合の「無知」は、犯罪として裁かれるべきである。
「法」は余りに詳細にすると、その実効性は乏しい・・・文言の、条文の解釈・適用に「百家争鳴」状態になるだろうから・・・其処が、為政者の判断であり、為政者を選ぶ判断でもある・・・勿論、法を作るのは官僚であろうが、それに実効性を保証するのは為政者の意志であるのだから。肝心なのは、その法の理念・・・件の如き不正を隠ぺいし、国民・市民の税金を要領するが如き行動を見のがす・・・への無関心である。「贈収賄」が、併せて犯罪ならば、それに関わった両者が犯罪者として嫌疑を掛けられる・・・そして、「過」の大きさは、裁判を通して、市民の共通した認識の下に判断されるべきである。それをあにはからんや・・・「貰い得」では、「法」の精神に間逆の法の施行ではあるだろう。
一人の政治家(そのレベルは色々あっても・・・)の支援もまた大事な市民活動であるかも知れない。しかし、そこは、純なるvolunteerが活動すべきstageではないか。Volunteerであればこそ、その支援者の「質」が、即、支援される政治家の品格になる・・・汚れた「おかね」で、支援することは、その政治家の品格・政治理念を、大きく貶めるもの以外のなにものでもなかろう。記事の取材も、その「収賄」的報酬を手にして憚らない支援者に行うべきであり、その心情を世間に晒してこそ、社会の公器と言われる資格をもつのであろう。
また、個人に関わる情報は、人と人とが交わる時の「触角」の様なものである。「悪銭」を左手に隠して、右手で悪手をする・・・そんな友情も絆も、あってはならないのである。領収書の、個人名の黒塗り・・・それは、他を憚る前に、自らの表情を菩薩に擬して、背後で、悪魔の笑いの止まらない存在でもあるだろう。