死語になった「友情」

人間災害・・・大津市の「虐め」・・・恐らく大津市だけではあるまい。TVに見る、大津市教育委員会の面々の表情にも、「何故私達だけが・・・」矢面に立たねばならないのだ・・・との、講義とも言える表情が伺える。さもあらん!・・・と、私も思う。しかし、そこは人間の社会、世間である。一つの事件は、一つのscapegoatである。自殺した少年も、それを、気持ちの何処かに、僅かでも意識した時・・・瞬間的に踏み出してしまったのではないか・・・経験した方・・・自殺未遂を体験した方・・・のお話等が聞ければ、また、違った感情が生れるのかもしれない。私自身、虐められた体験はあるが、こうして76歳まで生きているのだから、鈍感人間なのか、厚顔無恥なのか、傲慢な性格なのか、加害者に対する敵対心が励みになったいるのか・・・私自身でも分からない。確実に言えることは・・・「死ぬのが怖かっただけである・・・」。
虐めた子への告訴も視野に入っている今回の家宅捜査だが、次は、この方の家宅捜査も行われるかもしれない・・・家人が、請求された資料を余すところなく提出すれば、警察も、加害者宅の家宅捜査は行いたくないだろうから・・・もし、行われたら、それは、社会的な「虐め」になりかねない・・・一家心中への心配もなくもない。
目的は、「虐め」を防止すること・・・絶滅は不可能・・・であって、犠牲者の数を増やすことではない。また、宗教感覚にいえば、「恨み」の連鎖を絶つことであり、そこに必要なのが、甘ったるい云い方になるが「友情」だろう。救いの手を差し伸べる友情、肩を貸してあげる友情・・・共に、語り、語ることが明日を待つ余裕を生ましめる友情・・・少なくとも、「無関心」装わない友情でもあるだろう。涙を拭う「一枚のhandkerchief」が、友を救う・・・だから、いつも美しいhandkerchiefを持て・・・と、盃を傾けながら語る先輩もいた・・・鉄拳も友情だった時代の方だったが・・・。
姜尚中氏は、「朝鮮半島、日本列島が、10万人単位の自殺者が、圧倒的に世界一・・・」と語る。日本の深層的ethosは「縮み」であり、朝鮮半島は「恨(はん)である。両方のethosを少なからずDNAに持つ彼の著書・「悩む力」が、ベストセラーになる所以でもある。彼は、「悩み」は「力」である・・・力の生れる所、源泉であるというのだが・・・しかし、彼の説を理解するには、可なりの教養が要求される・・・つまり、夏目漱石が(その小説)が、何故に、こんなに長く読まれるのか・・・私の短い読書体験でも、消えてベストセラー的作家は多い。丹羽文雄等が、その事例の一つだろう。彼の小説等は、ジュンクにでも行けばお目に書かれるかも知れないが、一般的な大型書店で、お目に掛かるのは難しいだろう。しかし、丹羽文雄には、丹羽文雄なりの、深い悩みがあった・・・今日的には、介護、認知症の問題を半世紀程も先取りしていたと言えよう。しかし、読者の一人・私に、そんなことを感じるだけの教養も素養もなかった・・・恥ずかしさの極みである。
恐らく「虐め」の発端は単純なものなのだろう。恐らく、一寸したバカ芸人の真似ごとが、何かのきっかけで、「自殺」を誘因する言葉、動作に変身し、その重なりが、弱者に変じた「友」を自殺に追い込む・・・該少年を虐めたのも、かつては仲の良い友人達だったとの報道もある。一人の友人を大事にする子供ほどに、友人を失うことを怖れる傾向にある。そして、相手が、いつの間にか「悪鬼」に変じていることに気が付かない。虐める奴に何故付いて行くのだ!・・・とは、友人関係を可なりroughに考える子には、あるいは、教師を含む大人には分からない心理であろう。そして、そんな子は、得てして、大人への不信感を、深い所にもっている・・・いや、もっているからこそ、「友人」が、金科玉条・大切なのである。
「虐め」・・・大人・成人の意識の変革が遠い現況
・・・希望は見えないだろう。
先頃まで、無関心だった父兄に説明することに、どれ程の意味があるのか・・・私には疑問だが、もし、各人が・・・私がその中にいたとして・・・「私は、何を見ていたのだろう、何を考えていたのだろう・・・」と、多少なりとも、反省の真似ごとでもする気持ちになれば、その日のことを語る時に、一つの「答」が、自分なりに出せるのではないかと・・・も、思う。
会場で吊るし上げられる教育委員会、教師に、何ほどかのことを期待しても、それは虚しいだろう。彼等は、家族の「明日の飯」の事で頭は一杯だろう。原発を語るのも良い、戦争を語るのも良い、平和を語る・・・増税を語る・・・それも良いだろう。しかし、「子ども」の事を考えたことがあるか・・・学校を楽園と思っていやしなかったか・・・子供の表情に注意を払ったことがあったか、子供との対話は難しい・・・らしい・・・嘗ての様な「親父」になるのは難しい。そして、父親に厳しい母親に、子供の母親として「優しさ」を求める愚かしさ・・・闘う母親としての自覚が疎かになっていないか・・・個室を要求し、自立を主張する子供に、それらの権利を無条件に与えてはいないか・・・優しい親の目の届かないところで、子供は、厳しい友人関係に悩み、そこには、教師すらが、敵陣営にある状況すら無知である親であることへの反省は・・・と、せめて教師を教育委員会を責めた後は、自らも考えるべきだろう。
生活が豊かになれば、日常はlooseになることを避けられない。そして、子供は自立を要求する・・・自立の大切さ、重要さは「建前」である。そこに、disciplineへの自覚があって、与えられる「もの」である・・・それを知るのは、親の教養である。また、未来に「躾」の手本はない、参考書もない・・・しかして、それも教養である。詩を読む、小説を読む、友人と哲学を語る、沈思黙考・考える姿を見せる・・・私に出来なかったことを要求するが、自らの、子育て失敗に思う事と、g現況の子育て環境、教育環境、そして、日々堕落を見せているらしい世相に思う事である。
世間は冷たい。「ダメ」なものは、容赦なく切り捨てる・・・弱者が救われたのは、もう遠い昔である。それだけに、年齢に関係なく「友情」が大切になる。自分の逃げ込める「shell」が大切なのである。父親の懐、母親の膝が「shell」であるのか、否か・・・結論は私には出せないが、例え準備が出来ていても、子供は、危険な道を歩くものである。しかし、「友情」というものの危うさを、今回事件も示唆してくれている・・・学ぶべきことではあるだろう。