大津・虐め事件・・・学校は地獄である!

中学生の自殺の背景・・・見えるべきものが見えて来た。「社会科学」と言うが如く、人間の思考・行動が引き起こす事柄・事件は、全て「科学」である。結果があって、原因の存在しないわけがない。特に、その事態の結末には、その事態を引き起こした原因があり、そこに至ったprocessがある。加えて、環境が、原因から結果までのstageを準備しているのだが、それもまた、人間の「技」である。勝海舟が言うが如く・・・「なる様にしかならないのだ・・・」の表現でしか、我々には許されていないのかも知れない。しかし、そこに、失われてはならない「命」が失われる。そこに存在するのは「犯罪」である。そこに、人間の関与しか疑い様のない事件においてや・・・である。
虐めを目撃しながら、それを「喧嘩」と、自らの、それを押しとどめる行動を起こさない理由づけで見のがしたclassmate、周辺の傍観者、そして教師。虐めを止めさせる勇気、あるいは腕力の不足を自ら自認する子供の「密告・・・教師への報告・通知」を、あたかも雑音の如くに聞き流した教師・・・・私は、恐らく、少年の葬儀にも参加したでろう教師、classmateの心中に蟠ったものが何であったのか・・・後悔の念か・・・このまま事件が忘れされることへの期待か・・・はたまた、次は「俺か、私か」と云う恐怖であったのか・・・「三猿」を決め込んだ、classmate、父兄、教師、教育委員会・・・・それは、この日本という国家・民族が育んできたethosとして、諦めざるを得ないものなのか・・・ならば、明治維新とは何だったのか、戦後日本の再出発とは何だったのか・・・・このethosが、今日、先進国日本の条件であるなら、我々は地獄の上に胡坐をかいて、安穏と、明日の己への危険を感じない様に生きている「木偶の棒」に過ぎないのか・・・。今も、何処かで、この巧妙な「虐め殺人」をモデルにすべく、友人面で、友人の命を縮めている輩が、のうのうと、生きているのか・・・・実に恐ろしい社会ではある。
人は、悲しみを装いながら、焼香をし、お悔やみを述べ、告別の言葉に、死者を称えることがかのうなのだ・・・と、改めて思う。企業内の自殺に、一般には「弔辞」は許されない・・・のではないかと思う・・・私も、読まない弔辞を「棺」に収めた体験した一人である・・・この少年の葬儀はいかばかりだったのだろうか・・・。
しかし、mediaの報道が詳しくなってくるにつれて、「学校」の恐ろしさが分かってくる。ワイドショーのcommentatorは、学校は・・・・と、建前以上のcommentを発することができない。成績で競わせ、運動で競わせ・・・その中で、「劣等」な子供への差別・軽蔑・侮蔑の感情が育つことへの警戒を教師も教育者も、全く無関心・・・「競う」・・・これは、人類が今日まで、繁栄して来たenergyであることは否定しえない事実ではある。
そして、学校ではclassの団結を、地域社会では、世間を意識し、考えの一致(建前)が要求され、家族の中でさえ、異論は許されない・・・「そんなことを云うと嫌われるわよ・・・と」母親に窘められ、父親には、「付和雷同」を勧められる・・・教室では「民主主義」を教えられても、それは、試験の答案用紙に書く為のものでしかない。日常に於いて、右顧左眄しながら、「和」してしか生きられないことを教えられているのだから、子供の仲間においても、その「自説」を持つことは、自らを滅ぼすことにしかならない・・・この少年の自殺の背景に見えるものである。
カントは云う・・・人間が幸せに、安心して生きて行く方法は二つしかない・・・」と。その一つが、自らが「top」にあること。そして、もう一つが、自らを「奴隷」として生きること・・・であると。該少年が、何れの方法も取り得なかったことが、彼の命を縮めた。葬儀でclassmateが流した涙も、「俺は奴隷だったのに・・・・君は何故、奴隷になれなかったのか・・・」と問う悔しさであったのだと、私は思う。
学校とは、「恐怖」の館なのである。孫の居ない私だが、もし、「孫」がいたら、良い家庭教師を求めて、日本全国を行脚するかもしれない・・・・そして、長じては、世界を行脚するかも知れない。
学校は「地獄」である!