他人をあげつらうethosとは・・・・・

己の反省を込めてかくのだが・・・・得てして、他人の発言をあげつらうのは易しい。私の、他のブログへのcommentも、多分に、「あげつらう」意識が過剰になることがある。そもそも、原文で激しく挙げつらえば、その後を如何に云い繕っても、その底にあるものまで、払拭することは不可能。せめて、自ら書いたcommentを消去するだけである。しかし、己の文章に「入れ込む・・・執着」すると、それすらも中途半端なものになり、何方の批判も浴びない時は、自己嫌悪に陥ってしまう・・・さりとて、自らcommentしたものを勝手に消去するのは、加えて「礼」を失すると思うから、我が身の重みとして、当面は意識するのが、せめて罪滅ぼしである。
原発を語りあう会合に選ばれた意見陳述者の中に、電力会社の社員がいた。その方が、もっと上手に対応することは可能だったとおもうのだが、正面から真面目に、自分の意見を陳述した。そしたら、会場が騒然とした。「やらせ・・・」だと言うのだが、その意見を全部聞いていないので、私には判断できないのだが、彼の意見に誰も反論していない、批判する意見も出なかった雰囲気から察するに、私には、「やらせ」だとは、思えない・・・TVから判断するところだが・・・。しかし、主催者が、原発関係者を応募から外す知恵を出さなかったことに、多分に意図は感じるのだが・・・しかし、会場の混乱を演出する意図なしとはしないだろう・・・折角のchanceがを暴徒の妨害で駄目になった・・・・と。しかし、TVに見る会場の雰囲気から、私は・・・・
つまり、やらせなら、反論出来るだろう・・・と云うのが私の思いなのである。自分に都合の良い意見だけを聴くために集まり、自分の思いだけを満足させる結果に終われば・・・それで由。そんな人々の集まりだった・・・会場の一般人自身も、原発反対の「やらせ」的な人々であったと、私は思う。
それは、「暴追campaign」の集会等に共通するものである。「暴力団」として、自分が、他を差別しているのだという認識もなければ、批判、対話をするつもりもない。警察が、一部市民を「暴力団」と呼んで差別することすらが「差別」だと言う意識もない・・・彼等は、闘う姿勢でしか住めない様な立場に追い込まれているのである。犯罪は犯罪として、厳正に裁かれねばならない・・・それには、暴力を暴力として認識する地域の協力があり、警察を含む司法の適切な処置が必要なのである。事件の前から「暴力団」と定義して、事件を起こせば・・・「やっぱり・・・」と、自らの正義を誇る・・・この卑しさが、「暴追・campaign」に参加しながら、陰で、その暴力団と懇意である関係は払拭できない・・・市民として交流しているのだから・・・・。そのジレンマを打破する理念とはなにか・・・決して、彼等を差別し、隔離し、社会から追放することではないだろう。
話会え・・・と言っているのではない。お互いに命を賭して闘う・・・暴力的にではなく・・・べきだと、私は思う。根気良く、論理を整理し、お互いに正しく主張し、真摯に相手の主張に耳を傾け、異議・異論は、その中庸をお互いに求める・・・人間一生の努力である。政治的には愚かな行為であるが、「日常」という、無限にして制限のある時間を、問題ごとに、上手に仕分けして討論する、お喋りする、議論する・・・まずは、相手を「話し相手」として認め、可能ならば、一点でも良いから相手の良さを探して、認め合う・・・
昨日のnewsとして観たTVの映像に思ったことである。この会合が、電力会社を「敵」と認識して、彼等と闘う為の作戦会議なら、異分子が侵入していることは避けねばなるまい。しかし、お互いの主張を交換する会合なら、異分子の混入を歓迎こそすれ、嫌う必要はないだろう・・・私の感想である。
現今の経済情勢にあって、電力の使用制限を日常化することが「正常」と言えるか。立派な、大きな地震に耐える家に住み、高額な所得を得ている人々にとって、「太陽光」は、安い買物である。つまり、電力使用の制限は、貧富の差が歴然と表れる・・・寧ろ、貧しい人々に、電力だけは安心して消費できる社会が望ましいのだと、私は思う。
また、一つの時代は、汗して働いたであろう。しかし、今は、それ程の働きをしているはずもない高齢者が、その年齢を誇って、社会問題に口出しをする。それなりの知識を磨き、教養化して、斟酌して喋るのなら・・・それも大切なことである。しかし、「安全、命」をKWに言い立てる正義が、果たして、自らの、己の人生を汚していないか・・・その反省が多少はあっても良いのではないか。バスを仕立てて、半ば、東京見物を兼ねて・・・安く可能らしい・・・首相官邸の前で、数時間叫び、placardを振りまわせば、それで、終り・・・端的に云って、energyがなくて、農業が成り立つのか・・・機械化した農業が、どれ程のenergyを消費しているか・・・考えたことがあるのか。60年安保、70年の学生騒動・・・そして、バブル期のマハラジャ(ダンス)・・・その一瞬のenergyが、社会変革には何の貢献もしていない。「原発問題」で、やっと「おらが番だ!」と騒ぐ高齢者の卑しさ・・・また、sex appealにenergyは無用なのか・・・如何にも貧しそうなfashionで、首相官邸前に気勢をあげ、着替えて・・・AKB84顔負けのfashionで、秋葉原を闊歩しているのではないか・・・そう、個人の自由ではある。しかし、世の中、「卑しさ」に感動する貧しき人々も多い。そして、それが、生活環境を歪めてしまう・・・歴史を探れば、分からないでもないだろう。
自分の主張に酔えば・・・他は全て「排除すべき悪」である。しかし、その行動は、自らの足下に墓穴を掘る。そして、その穴に落ちるのは、孫であり、曾孫でもある・・・墓穴を掘った当人は、それを見る事がない幸せはあるのだが・・・・・