何故、こんなに執着するのか・・・大津・中学生自殺に・・・

中学生自殺が、「原発稼働反対demo」をnewsの片隅に押しやり、「オスプレイ」が、面目的なnews報道に堕してしまう状況を生みだしている。いや・・・mediaの作戦なのかもしれないが、後者の二つのnewsが下火になるころ、中学生自殺のnewsも巷間から、「噂」化するのだろうか・・・そんな気がしてならない。現政権にとっても、野党にとっても、中学生の自殺等、日常茶飯事の現代に於いて、それほど重要なissueではないだろう・・・面白くもない「国会中継」を、DVDの合間に覗いてみても、左程迫力のある議論をしている分けでもない。況や、「一中学生の自殺」等は、話題にもなっていないのではないか・・・。

虐めた中学生が起訴されれば、裁判の開始までは、静かに落着き、裁判が始まれば、殆ど報道が規制され我々には、刑量だけが、話題として提供されるだけのことであろう。教育委員会の何人か、あるは全員が辞任し、教育長が更迭され、勿論、校長は、その教師生活を終焉するのだろう。自殺した中学生の父親、家族に「何ほど」のものが残るのか・・・しかし、何かを残さざるを得ない時間を提起した、この父親には、敬意を払いたいと思う。

BS/TBSで、コンパス、プライムニュースの二つのチームが揃って「虐め問題」へのaccessをしたが、どれ程のものを提供できたか・・・我々の関心を掻き立てたか・・・期待するものは少ない。しかし私は、識者達のstereotypeな議論が、この問題の幕引きに貢献はしても、「答え」の一つだに導き出せない悲しさを思う。結局・・・今日と云う時代に至る、我々の社会の歴史が生みだした「悪魔的」なものの仕業でしかないのだろう・・・との結論になる。

中には、教師に「聖職者」としての意識を取り戻させよ・・・と、云う。もし、過去に於いても、教師が聖職者だったら、日本の教育界・学校は、中世Europeの様相を呈し、もっと悲惨な状況がうまれていたであろう・・・としか、私には考えられない。

「家庭」を強調する識者もいる・・・父親、母親が、子供に授ける「知恵・・・知識も含めて」は、生きる手段としての能力である。その中には、他人を出し抜く「力」への願望も含まれる・・・時には、「殺される前に殺せ!」と云う、親の意志を無しとはしない。

「社会・環境」を強調する識者には、己の立場・・・世間から崇められている己への傲慢さが感じられる。「絆」とは、お互いの干渉を認め会わずして存在するものではない。人間の交流とは、お互いの「もたれ合い」を意味する・・・「個人」を、全く認めない社会は、「奴隷」が存在しなければならない。お互いが、完全に平等であるべきなら、そこには「弱肉強食」の環境がなければならない。

そして、誰もが、語らないのが「group」である。仲良しgroupが、ある日突然に外れる・・・殆どが理由が分かるのは、外した側の論理に納得した時である・・・つまり理解者は、それだけで「虐め」に加わっているのだが、そこに、その意識はない・・・多くの教師のmannerだろう。

「group」にならなければならない雰囲気・・・地域の自治会などが、その典型的・・・その土地で素直に大人になれるのは、その雰囲気・環境に慣らされ、馴染まされた・・・言わば、事なかれ主義に徹することの出来る資質を持った人間だけである・・・地域が、容易には自力で発展する事がないのは・・・良くも悪くも・・・異見を持った人材を育てない、この環境なのである。シャッター通りの商店街の、そのシャッターの内側の光景・・・それは、虐め以上に、自虐的なものであると、歯ぎしりする若ものに出会ったこともある。

Groupを嫌悪する・・・それは、己が健全であると認識するに足る資質である。恐らく、この社会も、その様な資質が、大手を振って歩ける様な時代が生れるだろう・・・その時には、それに起因する他の問題が生れるのだが・・・そして、「百家争鳴」の賑やかな社会が誕生する。その血統を繋ぐのが、現代の「虐められっ子」であろう・・・と、私は想像する。今、虐めを耐えて生き延びている君が、我が子を「虐められない」子供に育てるべく「三猿」にするなら、君は、次の時代の悲劇を子供の為に準備していることになるかもしれない。

現代の「苛めっ子」・・・未来のない、弱者として晩年が待っているだけである。自殺等せずに、その惨めな晩年をあざ笑うためにも、元気に生きるべきである。newsが、虐めに拘るのも、その予感が、関係する人々の脳裏を掛け抜けるからである・・・と、私は予感する。