自分が其処に居る意味を問う・・・・

一郎の突然の移籍・・・伏線はあったのだろうが、流石は、アメリカの報道だと・・・その真相は知り得ないが・・・私は感じたし、思った。一つは、newsの価値を高める為に、もう一つは、イチローと云う人格が、その存在を尊重されてしかるべきだと言うことの為に・・・。
しかも、移籍したTeamと、昨日まで所属した・・・つまり移籍前・・・Teamとの対戦を、そのrivalともなるTeamのfranchise stadiumの試合に出場。そして、hit、steal・・・全ての舞台装置までを準備する用意周到さ・・・さらに、それが、全く嫌みを感じさせない。移籍した選手が、かつての・・・と、云っても、直近まで所属したTeamのfranchise stadiumに姿を現しただけで「ヤジ」が飛ぶ日本との差は大きい。それを、「故郷大事」の精神として報道するmediaの偏狭さ・・・恐らく、民族性ではあるまい。社会のruleへの理解、理念としてのruleへの尊厳が生活に沁み込んでいるか、否か・・・その違いなのだろう。
つまり、「一緒に住んで故郷」・・・他者排除の「排他的」なethosなのだと思う。アメリカとて、黒人差別、ラテン差別、あるいは黄色人差別・・・等々、差別は、まだまだ多い・・・しかし、少なくとも、しょれを「社会のrule」として認めない環境への努力は、日常的に行われているし、その差別のenergyを上回るenergyで、抑え込む努力は日常的に行われている・・・と、私は思うし、イチローなどへの、彼等の近親感の表現に感じることができる・・・と、思っている。
なによりも、マリナーズのTeam平均年齢を10歳近くも上回る己の年齢から、「俺は、此処に居るべきではない・・・」との判断をした様だ・・・。私は、そんな判断が、我が日本の社会のethosとして存在するのだろうか・・・ない様な気がする。Veteran・・・これは、場所、地位、位置に執着している人間に与えられる尊称ではない。軍隊で言えば、絶対に新兵を、激戦の現場で戦死させない兵士をしてveteranと云う・・・「drama、バンドオブブラザーズ」の全編を貫く理念である。日本の小学校に、中学校に、はたまた高等学校に・・・このclassに存在・在籍する限りは、「君を絶対に死なせない・・・」との理念が、class、あるいは学校と云う現場・社会の理念であったならば、大津の中学校の様な悲劇は生じるはずもないのである。
Group、集団、社会、地域・・・そこに、夫々の理念がなければ、それは「烏合の衆」・・・つまり、弱肉強食の世界である。人類発生から今日まで、恐らく、内部で争い続けたgroupは、絶滅していると、現在を観察すべきであろう。そこには、「何故、俺はここにいるのだろう・・・」との、日常的な問いかけがあり、その存在の資格を己に問いながら・・・数十歩の後ろの吾の姿と、半歩先の己の姿を、価値的に眺め得る一人の人間の姿を己に求め続けなければ、到底叶わないものだろう・・・と、私は思う。
年度末になると、必ず、操業停止の対象となる、小さな、古い工場のshift managerとして、工場のfinal stageに必要な人材の選択に苦しんだ10年間・・・final stageには優秀な人材が必要になる。しかし、彼等には、有利な移籍先は残されていないことが多い。優秀であるが故に「冷や飯」を食わされる・・・覚悟の出来ている人もいるし、憤懣を露わにする人もいる・・・その度に「運・不運」を思ったものである。しかし、「人財」・・・場所を選ばず・・・今も、感謝の気持ちを持ち続ける方が、何人かはいる。人は、地位だけでは計れない・・・最後は、己自身に云い聞かせる言葉になった・・・・。
生きる場所は、与えられるものである。その与えられる場所からの飛躍も、また、与えられるものである。その中で、己を磨くのは、唯一己だけである。その「武器」は、その場所、groupの理念への尊厳であろうと、私は考える。技術は己のものである・・・そして、己が磨くものである。しかし、そのgroupに身を置く為の理念は、その理解であり、己の「普遍」との妥協であり、絆でもあるだろう。奢らず媚びず・・・・イチローが、新しいTeam mateに笑顔で迎えられる、期待で迎えられる・・・それは、「彼だけの彼」ではないのだと、私は思う。つまり、彼の技術への期待であり、彼の力への尊厳であり、その全てが、Team memberの「利益」に寄与することへの期待なのである。唯、存在するだけの期待ではない・・・つまり、西郷さんの銅像でもなければ、金日成銅像への、見せかけの尊敬でもなければ、親しみでもない・・・「俺は大事にして貰える・・・その権利がある・・・」と云うものでもなければ、「俺は、大きな存在だ・・・」と云う傲慢でもないだろう・・・」。
Classの中で、得てして、成績の良い子が虐められる。陰湿な虐めを受ける・・・理由の一つが、「お高く止まっている・・・」である。確かに成績は個人のものである。しかし、お高く止まったその姿勢には、「俺は特別な存在だ・・・」の空気がないわけではない。「カンニング」は不正である。しかし、それをにべもなく断る、軽蔑するのは、その不正行為を自分にも相手にも許さない心情とは別のものである。己の「場所・位置、順位・・・」が分かっていても、それが、他には近づけない「頂上」なら、孤立も当然だろう。邪魔な存在になるのは当然だろう。それを理解するのも、学校と云う、classという場に、自分を置いて可能なのだと、私は思う。その努力は、「死にたい!」と思う程に苦しいものでもあるだろう。その努力に裂くenergyが大きければ大きい程、価値あるものであると、私は思う。
イチローの昨年度の成績は平凡だった・・・・それだけに、イチローの陰に涙を呑む若い選手の姿が苦しかったのかも知れない・・・川崎も、その一人だったのかもしれない。此処に甘んじるより、もう一つ冒険をして見よう・・・それが、イチローの決心でもあっただろう。自ら移籍を申し出た心境でもあっただろう・・・大津の中学生も、classの変更を申しでることも出来たのではないか、あるいは転校も可能だったのではないか・・・問題は、一人では生じない。片方の当事者は必ず「己」である。
孟母三遷」の教え・・・舞台も、舞台の状況も全く異なるが、自分が変わるべき時に変われない・・・時間を変えることは難しい・・・・殆ど不可能だから・・・場所を変える・・・これが、この教えである。
イチローも、彼の感じていた雰囲気を想像すれば、一種の「虐め」の雰囲気を感じ取っていたことになる。自覚といっても良いだろう。イチローが存在するために、ベンチで、笑顔の奥に涙を隠す選手がいる・・・エラーはともかく、timelyなhitが打てなくば、その視線も気になるだろう・・・その視線が「虐め」なのである。
判断と勇気・・・・しかし、全てを他人の所為にして、解決に「死」を選ぶ・・・そんな選手ではないであろう「イチロー」の活躍に、私の余生を楽しませて頂こう。