隠蔽の背景の「勲章」という魔物

現行制度の勲章授与の対象から、僅かでも「教育」に携わった人物は、即刻外すべきである。人間を育てたその栄光も功績も、その時代に称えられるべきではない。その判断は「歴史」にしか語る資格はない・・・
虐めの隠蔽・・・大津の事件で、再燃・・・これまでも幾度か再燃しては、喉元過ぎて忘れられたのだが・・・、その背景に私は「勲章」の存在が議論されないことを不思議に思う。
毎年の春と秋に、新聞の紙面を大きく独占する、「叙勲者の名前」・・・私には、「茶番」でしかないのだが・・・「何故、この人が・・・」との記憶もある・・・・棺の上に置かれる「勲章」の魅力は強いものがあるとも、色々な噂に聞く。葬儀の終わった道すがら・・・羨望・嫉妬の言葉を吐く同僚、先輩の怨差の声がない分けでもないのだが・・・・。座敷に飾られた、御先祖の写真の下に、誇りを被った「勲章」がぶら下がっている光景も、遺族には誇りなのだろう。しかし、先の大戦の戦死者に送られた、金鵄勲章を始めとする、各種勲章は「今」、どうなっているのか。小学生の時(昭和21,2年)、街の古物商に飾られているのを見た記憶はある。
元・学校長、元・教育委員・委員長・・・等々、毎年、可なりの数に登る。その中に、今回の問題を提起した大津の中学校が含まれていないか、否か・・・気になる所である。「人は、棺おの蓋をしてから定まる・・・」とは言われる。しかし、今回の様な「陰湿な隠蔽」が行われているとしたら、韓流dramaではないが、墓を暴いて、勲章を剥奪するべきではないか・・・本来ならば、退職金も、功労金も、併せて剥奪されるべきだろう。
虐めた子供を逮捕・処罰せよ・・・とのブログも多いが、私は、一時的な「癇癪」に過ぎないと思う。人間の行動を決めるのは、その内容、強度はあっても、所詮は名誉であり、欲しいのは「勲章」である。勿論、勲章を伴わない「名誉」も多い・・・寧ろ、庶民は、そんな「名誉」を密かに胸に秘めて生涯を終わる・・・・密かな「誇り」だから、時に自慢話も出る・・・それが文字になれば、「自分史」になる・・・・しかし、幾つか読ませて頂いた自分史の中に、自分の功績を誇るものを、私は読んでいない・・・読ませて頂いた私が「忖度」することを、あるいは要求されているのかも知れないし、その「忖度」が友情の証かも知れないのだが・・・それを伝えるにも、それなりの「忖度」に通じる言葉を必要とする・・・棺の上の「勲章」に、葬儀参列者が怨差の言葉を発することとは、雲泥の差がある・・・と、私は感じるのだが・・・。
恐らく、一般市民の多くは、「勲章」に醒めた感情を持っているのではないか・・・その「勲章」に、僅かな価値でも付与しているのは、虐められるclass mateを横目に、「平穏なclass」を誇る・・・一致団結、絆、あるいは、虐めの隠蔽・・・で、反省の気持ちもなく、犠牲になったclass mateを悼むこともなく、彼の記憶さえ封印したクラス会・・・それが、「隠蔽」に潜む本質である。クラス会とは、幾足りかの犠牲者を無視した、苛めっ子の「勝利宣言」でもあるのだろう。「同窓生」・・・有名人の同窓生の語りの中には、恩師の勲章があり、年齢を重ねれば、陰で怨差しながら、そのmemberを自慢する卑しいクラス会もある。
教育者としての、「真の誇り」とは何か、それは、満身創痍になりながら、子供達の為に闘った教師、教育関係者に、救われた子供達が与える「称賛の勲章」であろうと私は思う。