ロンドンOlympic開会式

Olympicには余り興味がないのあだが、その開会式・会場の仕掛けには興味がある。しかし、mediaは、勝敗ばかりを報道することに熱心で、それを支える「文化・文明」を報道することは少ない。また、僅かな報道があっても、常識の枠を超えない無難なものばかり・・・、結局、勝敗以外は、視聴者の興味を引かない・・・と、自らの報道の不味さを認識することはない。
今回の私の興味は、「聖火」・・・・サッカーボールの様に蹴って着火するのだと、まことしやかな報道・・・また、torchを先端に付けた「矢」を入る二番煎じ等々・・・その方法を想像するだけで、このOlympicに懸ける英国の理念と、植民地政策の先端を走り、その戦争に明け暮れ、多大な国家資産を構築したこの国の、これから先の数世紀は、殆ど開催がおぼつかない現在・・・その歴史的回顧を語る報道は見当たらなかった。勿論、私にも想像できるものではない。しかし、そのstageは、英国の歴史であり、英国が、数十年、数百年後の、再度の開催を狙う思いが、恐ろしさを含めて、伝わってくるものだった。
聖火の入場・・・ベッカムが、どの様な形で参加するのか、アリが、どんなstageに登場するのか・・・大凡の期待を裏切るものではあった。もう、彼等は「過去」なのである・・・と、我々にもロンドン市民にも知らしめる・・・しかし、これこそが、過去を美しいものとして、現代に勇気を伝えるものとしての「価値」であることを考えさせらる。ボートからtorchを受け取った英雄も、また過去の英雄である・・・しかし、彼が、そのtorchを引き継いだのは、まだ現代の英雄になっていない、しかし、有望な若者だった。
其処には・・・このOlympicが、君達の為にあるのだ・・・と、そのmessageだったのではないか。私はそうであると確信した。過去の英雄が、無用の長物では決してない・・・百本の過去と、半歩の未来・・・そして、百歩の過去には、この帝国の忌まわしい記憶も、また、今日に繋がる功績も綯い交ぜになっているのだが・・・その歴史に踏みにじられた民族・国家が、今日、十分と言えないまでも、明日への歩みを始めている・・・それが、聖火が点じられた、銅の容器に刻まれた、参加国の名前であった。数百人の選手が参加する大国あり、一人、二人の選手にしか恩恵が及ばなかった小国あり、そして、未だ、戦火の収まらない国家・民族があり・・・しかし、会場の、TVの前の観客も、「もう直ぐ・・・だ!」と、その戦果の終焉を実感することが出来たのではないか。
入場行進の戦闘に見たこの容器に不思議を感じた人々が世界中にあったのではないか・・・私も、この容器の故に、最後までTVの前を離れることができなかった。そして、最後のstage、climaxに、その演出の素晴らしさに、憎さを感じながら称賛した。
「陽の沈まない帝国」・・・・その存在を知らしめる演出ではあった。其処に、嘗ての、植民地帝国の意志を感じる人々・民族のいただろうし、その権威に恐怖を感じる人々も多かったかも知れない。しかし、その恐怖感を払拭するのも、参加国の若者の責務であり、英国の若者の責務でもあるだろう。
「100年」を回顧し、このOlympicの閉会式に何を感じるか・・・その明日に、己が何を哲学するか・・・その毎日が、次の開催国に継承される理念にもなるだろうし、その後の開催国の血液の中に生きる理念にもなる・・・・と、私は信じたい。
しかし、あの「聖火台」・・・産業革命発祥地の英国に相応しいidea、systemではあった。歴史とは、こんな姿で、伝統を見せてくれる、理解を進めさせてくれる・・・そこに、過去の憎しみを上乗せしてはならない・・・・私は、思った。