V・E・フランクルー夜と霧

NHK・「100分de名著」・・・今回からの4回シリーズは「V・E・フランクル」。視聴しながら、何故か私の脳は「虐め問題」に走った。一度書いたと思うが、私は、教室の中の「犯人探し」、そして「処罰の厳正・厳罰」化が解決になるとはしない「派」である。勿論、「虐め」問題に、何らかの解決が完成し、「虐め」が、この社会から消滅する等と云う「夢・妄想・幻想」も抱かない人間である。「虐め」は、私にとっては、「私」に目覚めさせてくれた、一つのaccidentであったに過ぎないからである。もし、「虐め」で、私は命を失くしていたら・・・そんなcaseが無かった分けでもないが・・・こんなブログを書いている私も存在しない。私が、「虐められっ子」に、何としても「生き残れ」と云う理由である。
V・E・フランクルは、この著書の中で、人間の心のありよう・・・つまり、他人に何かをしてあげる・・・とか、誰かを救うとか・・・そんなことではなく、やさしい言葉を掛け、一かけらのパンを与え・・・自分の食事を譲る・・・そんなことの出来る人は生き残ったと言っているに過ぎない・・・随分以前に読んだ記憶の中から引き出しているのだが・・・只それだけのことだと。しかし、その中に秘めた覚悟は、生きて出ることが出来たら、この事を必ず書こう・・・との決意ではあった・・・と、これは当人の言葉でもあり、彼の外にも、生き残った人々・・・医者であってり、哲学者であったり、音楽家であったり・・・が語るところでもある。
私の脳が「虐め」問題に走ったのも、「生きてなんぼのものだ!」と云う、私の倫理観・・・如何にも高尚に聞こえるが、「無」になるのが怖い、つまらない・・・のしからしめるものである。虐めにあっている子供達、時に大人達の耳に叫びたい・・・生き残れと・・・。そして、その事実を、名誉棄損覚悟で、実名で「世」に問えと・・・・その為の「記録」を心がけよと・・・たかが「虐め」で、自分の言葉さえ失う、奪われるほど「愚かな」ことはない。「私は、これで学校を止めました。退学しました・・・」と、世に問えば、相手は、回復できない大きな傷を負う筈である。家庭を失うかもしれない・・・中学校に行かなくても、高校に行かなくても、進学の方法はある。あるいは、自分で「出版社」を創立する方法だってあるだろう。日本中の「虐められっ子」の手記を集めて出版する・・・恐らく、永遠には続かないだろうが、一人の人間を葬る位のことは可能であると、私は考える。一生の中に、合法的に一人の人間を社会的に「葬る」・・・快感ではないか・・・
私も、死への誘導が続いたら、その生贄にしたい人間を何人かは持っていた・・・しかし、相手の方が、酒に溺れた結果、先に死んでしまった。
他人を虐める人間の、終末とは、得てしてこんなものである・・・中には苦しみながら、生きながらえる人間が無しとはしないが、その苦しさは、復讐を誓う苛められた側よりも、深く苦しいものだと思う。何故なら、「許す」権利は、虐められた側にあるのだから・・・もっと言えば、虐めた奴に、毎年、年賀状を出す・・・そんな人の話を、当人から聞かされたこともある・・・その文言を考えるのが、一年間の仕事・・・結構楽しい・・・と、語った。そして、俺より先に死んでは貰いたくない・・・とも。
ナチの収容所で、そんな気持ちで我が身を励まし、ドイツ兵に媚を売り、時に、同輩を犠牲にしながら生き延びたユダヤ人もいたかもしれないのである。先日、最後のナチ高官が逮捕されたと、新聞の片隅に報じられていた。98歳だったとか・・・天寿を全うさせなかったユダ人の執念を思う。虐められっ子・・・死にたいと思う子・・・その「爪」の垢でも呑む心算で、新聞に、その記事を探して欲しい。そして、何時の時代でも、虐める側にある人間は臆病なのであり、死が怖いのであり、君の死は、彼の背負うものを消してしまうものでしかない。虐めた子供の背中に乗り続ける・・・それが、君の重要な役割であり、苛めっ子を減らす、最大の武器なのである。
V・E・フランクル「夜と霧」・・・近く再読して見よう・・・「100分de名著」のシリーズが終わるまでに・・・・・。