スマホ・ファッショを危惧する・・・

私は、400字以上を以って文章とする・・・現実には、2,000〜3,000字のブログに知人達はあきれかえっているのだが、可能な限り、理解への努力をして下さっている方には、その文章を囲む城壁の突破口を提供して、理解をしていただく努力をするのが、書く側の、責務であるとの思いがあるからである。現役時代は、「お前の文章は、頂上のない山の頂上への道を思わせる・・・」と、上司にも部下にも嫌われたが、自分自身をさらけ出しているお前の気持ちは伝わる・・・と、慰められることも多々・・・長い手紙は、嫌われる。これは、ツイッターなるものを嫌い、スマホなるものを軽蔑する私の心情の暴露である。
首相官邸前の、金曜日のdemo・・・まだまだ参加者が増えているとか・・・国民の政治行動について、何ら批判する気持ちはないが、これが、60年安保と比較されると・・・少し変だな!との感慨は生れる。
つまり、60年安保は、その成否、正邪は会っても、若いサラリーマン、学生の、激しい討論のstageがその背後にあったことを忘れてはならない・・・と、私は思う。つまり、安保に反対する学生・勤労者・・・東京のwhite-collar的な・・・では会っても、国の将来と、幼い日に目にした日本の状況に、当時の政治情勢を重ねて塾考し。討論し、議論した結果の行動だった。国民の多くが、まだ「食べる事」に、その半分以上のenergyを費やし、街の復興の遅滞にいらいら感を募らせていた時代でもあった。広島・長崎の原爆被災者の事も、脳裏の何処かに置き去りにしながら、可能な限り豊かな社会と、その国家的安全・安寧への希望と焦りが、あの行動を惹起したのである。子供連れで、めいめいが勝手に、言語不明を叫ぶことはなかった・・・
その背景にある、demoに集まった人々の「軽率」さが見え見えであることを感じる。つまりfashionとして集合しているのであり、有名芸能人の、日本語らしからぬ日本語のconcertに興奮して、手足を振りまわし、奇声を発し・・・歌を鑑賞するでもなく、観衆の中での、絆が生れるでもなく・・・ただただ騒いでいるだけ・・・だから、artistの芸も歌も、全く百年一日が如し・・・懐かしのmelodyが人気の所以である。彼等は、その時代に生きながら、その時代を呼吸し、身体に沁み込ませていないのである。民主党が、選挙を先送りし、一見、選挙を急ぐgestureを見せながら無理強いしない、自民党公明党が、選挙を急がない理由がここにある。唯、雑魚の如き、少数政党が、“ならない”ことを見越して、選挙を急ぐgestureを見せる滑稽さ・・・これが、現況の政局であろう。
首相官邸前の群衆・・・群・愚衆と云うべきか・・・個々人の主張を、相互に聞き、議論し、討論して、その主張をしているのではない。大義名分を掲げ、その空っぽな内容を社会に訴えているつもりだろうが・・・その声は殆ど聞こえない。つまり、言葉になっていないから、聞こえないのであり、問いかけがないから、人々が聞こうとはしないのである。かつて、衆議院で、三分の一以上の議席を獲得した社会党が、欣喜雀躍・・・「憲法改正を阻んだ・・・」と大喜びしたものである。その光景を自民党は冷たく見下ろしていた・・・自民党が三分の二以上の議席を得ても、そうやすやすと憲法は改訂できない・・・何故なら、「国民投票」に関する法律が整備されていないのだから・・・社会党の幹部党員がそれを知らない筈がない・・・彼等は、無知な国民を騙しただけのことである。そして、該法律は、社会党衰退の暁に粛々と衆議院を通過した。
官邸前の愚衆の騒音に、「大きな音がするね・・・」と云った野田総理の発言は正しい・・・つまり、安保闘争の様な、主義主張は存在しないのである。論理がないのである。そして、demo群衆の理念は、全く、影すらも存在しないのである。
「主張とは・・・」、その論理の陰に怯え、あるいは恐れを感じながら、その論理を訴えるものである。そして、その討論の中で、怯えの幾つか、恐れの幾つかに「答え」を見出し、全体としての精査を極めて行くものである。何の同感もなく、スマホから、只集まれとの情報を得て集まった・・・将に愚衆である。集まってから、お互いの討論・議論があれば、其処での成長に期待もできるだろう・・・しかし、拳を突き上げ、単純なシュプレヒコールを繰り返すだけ・・・三々五々と集まり、何らの得るものもなく散会する・・・mediaが報道しようにも報道する内容がない・・・と、云うのが実情だろう。
そもそも、日本の女性は、国家に関する直接貢献が少ない・・・否、国家に依存するかぎり、為政者から期待されない存在なのである・・・その変化が見られなくもないが、戦中の反省が、全くないままに、社会が大きく変わった為に、反省の機会も与えられなかった。
その一つが、若者の命を戦場に失うことに無頓着だったこと・・・欧米の各国は、ドイツの末期を除けばドイツですら・・・行わなかったことである。特に「学徒動員」・・・中学生、時に小学生までをも、軍事工場に動員し、広島、長崎では、大きな犠牲に供した・・・アメリカで、軍事工場に働いた主体は「主婦」だった。つまり、志願兵を除き、学生が徴兵に掛けられることはなかった。もちろん、そのしわ寄せは何れかの階層の国民に求められるのだが、アメリカの国力を減じる要因としては排除されていた・・・その犠牲が、家庭の主婦に求められたと言うべきだろう。欧米のwoman libの運動は、そのenergyを個々に源泉を持つのである。アメリ憲法に、軍隊における男女平等を盛り込ませたのも、第二次世界大戦時の主婦の貢献があっての事である。
首相官邸前に集まった群衆に、婦人・女子青年の数は多い。国民としての「女性の自覚」に、欧米の、女性のもつべき理念が理解されているのか・・・・国家議員に女性が少ない先進国である。その意味では、共産党政権下の中国の方が、余程先進国である。何故か・・・選挙事務所の人気者は女性である。選挙カーの声は、女性の声が望まれる・・・そして、それに嬉しそうに甘んじる、卑しい女性の姿がある。
召集令状ならぬ、スマホ召集・・・自らの命を虚しく消耗しているのかも知れない。このdemoの中で、カルチェラタンで、議論を楽しむ姿が見える様になれば、野田総理大臣も、参加してくらるのではないか・・・そんな「demo」に変身する可能性はないのだろうか・・・。