原爆の日・・・「平和への願い」は何処に・・・・

東日本大震災福島原発事故・・・以来、広島、長崎の「原爆の日」の理念が歪んでしまったのではないだろうか・・・このままでは、先人達が築いてきた、「平和を世界に・・・」の願いが、何がしかのenergy問題に歪曲されかねない・・・ここで、一歩立ち止まって、しっかり考えるべきではないのか・・・と、この夏は考えた。
また、最近は、オスプレイ配備への抵抗・・・これは、mediaのnewsに見る反対運動と、私の考えとは異なるが、避けられるなら避けたいと言う気持ちでは、見ている。その意味で、「反・体制」運動への転換が垣間見えることに、ある種の落胆を禁じえない。
「あやまちは繰り返しません・・・」の文字に、原爆の日に集う人々が、どの様な感慨を有しているのか、戦争を知らない世代が、どの様に感じ、己の原爆に関する思考に影響させているのか・・・戦争を知る大人達も、己を一歩引いて考え、叶うなら、真摯な対話を行うべきだろう。この文言に、「謝るべきはアメリカ・・・だ!」との意見に、私は組みしない。
日露戦後の外交の失敗、そして、政党政治の未熟さが生んだ、scandalousな政治show・・・その挙句・・・その道具としての、誇りを被っていた、しかも天皇すらが納得していた「天皇機関説」で、国民を興奮させ、あらぬ神話で国民を煽りたて・・・そのまま、勝てる筈のない戦争に突入したのである・・・国民の熱狂的な支持を得て・・・これを「あやまち」と云わずして、なにを「誤ち・・・」と云うのか、「現況の、闇愚な「原発反対」にも、同じ様な雰囲気を感じる私である。
そもそも、原爆の日の集いは、その「核戦争」と、日々に進化・巨大化する「核兵器」への危惧から、その「核」の成長に合わせる様に拡大したものである。至って、「平和希求」の色濃いものだった筈・・・それが、近隣諸国の、我国に対する「恐怖政治・外交」を受けて、いつの間にか、「平和」を考えるmannerを放棄する様になった・・・何故なら、少なくとも、憲法で他国への侵攻を禁じている、専守の防衛が、ある種の「危険」を、国民の間に醸成させ、それが、内向きには、「無抵抗主義」の風潮を醸成させる現状があるからだろう。
太平洋の、相次ぐ「原爆、水爆実験」・・・どれ程の「放射能」が、拡散したのか・・・海に大気に・・・太平洋で獲れるマグロに、どれほどの心配が寄せられたか、うなぎの稚魚の産卵場所とも近い・・・誰も、放射能を計れとは言わなかった・・・流石に、「大五福竜丸」の魚は廃棄されたが、この船の見学者は、引きも切らないものがあったとか・・・放射能の心配が消滅した現在は、殆ど、見学者の姿を見ないのではないか・・・脱・原発を大声で叫ぶ人々の関心すらないのではないか。官邸前のdemoの軽薄さを、私が思う所以である。「文明」とは、その数値化が可能なものは、極力「数値化されたdata」で冷静な議論が行われるべきだと、私は思う。
そして、福島の原発事故が、energy政策を無視するが如き「理想論」の蔓延になり、原発事故の、悪質な「人民裁判的隠蔽的議論」を蔓延させてしまった・・・福島の方と、長崎の方の、放射能論議・・・当時爆心で被爆した方々の、90歳を超える高齢者との対話の中で、その驚きを隠さないやりとりが記事になっていた。原爆投下の直後に原爆・爆心地に立ったcameramanも、結構な高齢者として元気にcameraの前に立っていたのは、数年前だったろうか・・・・。
少なくとも、原発の事故は、「原子炉・本体」が爆発したのではない。冷却水の断水への対応が、その事前の準備として、事故への対応の準備として欠落していたのである。水素爆発が何故防げなかったのか・・・その危険・・・セシュームの拡散・・・を何故回避出来なかったのか。本来なら、議論は、此処に集中すべきだったはず・・・それが、平和を希求するべき「原爆の日」の願いが、「平和」ではなく、原発反対に歪曲される・・・原爆の日の「思想」は、それほどまでに軽いものだったのか・・・残念でならない。
「平和」とは、敵対する国家、民族、市民をも含みこんでのcampaignでなければならない。隣り会っている国家も人も、「隣り会っている」だけで、相手に脅威をあたえているのである・・・このカントのphraseが、まず、念頭にあって、更に、世界が一つにまとまってしまう事態は、絶対にあってはならない・・・との箴言に、真剣に耳を傾けなければならない・・・もし、僅かに「平和」な状態を僅かでも可能性として存在させたいなら、「国家」という体制が、お互いに「平等に・・・」連合することしは方法はない。カントにして、「平和」を語ることのできるthesisなのである。
国家の連合、同盟は、その形は、その時の条件で変わる・・・同盟とは、同盟が理解される限り、平等な関係として運用されなければならない。其処に、妙な僻み根性が侵入することで、何時でも「敵対関係」に変ずるものなのである。開国した日本が、数十年で世界の一等国になった・・・内容の伴わない一等国への列強の目線が暖かいものであろうはずがない。可なりな、警戒があったはずである。そこに、僅かな、武器の優位を・・・誇って、同盟関係が消滅するや、否や、その権益への干渉を始める・・・列強の植民地政策を是とするものでもなければ、称賛するものではない。しかし、植民地政策を、どの様に終焉させるか・・・列強がその方策を探っている、その背後で、植民地の資源の独占を意図した外交とは言えない、戦争・侵略外交・・・まだ未熟な民主主義を封じ、言論を抑圧し、国民を奴隷状態にして踊らせて、戦国時代(日本の)の様な戦争を、東南アジアや中国大陸に展開した「日本」・・・。「あやまちはくりかえさない・・・」・・・原発事故も含めて、今一度己の胸に確認しておきたい・・・。
紛争に至る、外交も、危険を承知で稼働する原発・も、寸分の「あやまち」も犯してはならないとの、日々の覚悟が求められるものである。しかし、原爆の日の「平和への希望」に、多分に人間の欲望と絶望を併せ持つ「原発」を絡ませて、「平和」への希求にあるべき心情を希薄にさせてはならない。専制帝王になってもならない、奴隷になってもならない・・・あるいは、お互いが競いあいながら、その生存を安穏に続ける・・・そこに在るべき己を考え、確認する一日でなければならなと、私は思う。