*教育とは・・・?

今朝(8月27日)のみのもんたの番組で、韓国の、小学校教育の実体の一端が紹介されていた。この時期のニュースだから、好ましいものではないのだが、疑問は二つ。
その一つは、・・・ニュースだから実体を知らせると言う名分はある。しかし、その冠詞に「平等」を重ねると、それは不可能・・・故に、ニュースの内容は偏らざるを得ない・・・得てして「悪」の方に・・・。今朝の紹介も、「日本憎し・・・」の教育の実態を説明するものであったが、私世代は、小学校教育の半分は、同じ様な教育を受けているのだから、特別に驚かないし、植民地で終戦を迎えた日・・・漠然と、此処(植民地)が日本ではないことを知っただけのことである。慙愧の念も反省もない、その代わり、植民地の間、個人的に、彼等を虐めた記憶もない・・・そればかりか、わが家には、常に、父の部下(朝鮮人)が家族ぐるみで出入りしていたし、ほぼ「月に一度」位の頻度で、豪華な食事(母と祖母とオモニの合作)が行われいたし、私の、遊びの師匠は、この青年たちだった。戦後も、脱出の日まで、親切にもされたことは、今日に尚残る楽しい残像である。だからと言って、植民地政策を「由」とするものではない。しかし、加害者の立場から云えば、何故に植民地となったのか・・・其処で得たものの大きさを認識しなければ、永久に被害者としての「恨み(はん)」に苛まされるだけだろう・・・と危惧する。独立、軍隊、学校、通信、そして戸籍・・・一つとして、「宗主国清朝」から得たものは皆無である。
朝鮮語(ハングル)の書物は読めないので手にすることはないが・・・例え手に出来ても、日本の「新書」の様に、手軽に且つ、他めん的に・・・歴史を教えてくれる「本・著書」は、殆どないのではないかな・・・友人の述懐なのだが、もし、それが本当なら、大人になってからの苦労が大変だな・・・と、私は同情する。まぁ・・・日本人であれ、韓国人であれ、はたまた、学ぼうとしない人間には、国籍に関係なく、学校病は終生付着したままなのだろう。時々除くブログにも、無きにしもあらず・・・。
「教育」・・・「愛国心」を煽って、今日の社会・世界はない。愛国心が、もし育つとすれば、国籍・言語・習慣を越えた、人の交流の中にしか生れない。他国、他民族を卑下して、己が、己が国に、社会に、安心して暮らせる理由はない。私は、こんな話を酒の肴にするようでは、旨い酒はのめないだろう・・・そう思うだけである。