茶番の報道・・・・その裏の悲哀とは・・・・

「茶番の報道・・・・」では、日本の方が中国の先輩である。ポツダム宣言を受諾した後も、茶番報道の「大本営発表」は、続いていた・・・今さら、「負けています・・・」と云えない事情もあったのだろう・・・が、満蒙や北朝鮮での苦難に遭遇した人々にとって、この数日間ではあっても、「茶番」が無かったら、その後の事情も可なり違ったのではないか・・・私は、その手記などを読む度に思う。
Terrorismとしてのdemo・・・これを、中国国民の怒りとか、要求だとか、果ては真摯な心情であるとか・・・馬鹿を言いなさんな!・・・と、思わず叫んでしまう。国民をして、「愚衆」として、あるは、時代劇dramaに摸して言えば・・・このdemoの若者は、身なりは立派でも、その資質は「奴隷」である。中国の若者が、その自国の歴史に疎いことは、20年余も以前にお付き合いした若者にも、十分感じていた。まだ、文化大革命の炎の残り火がくすぶっていた頃だったが、同行の年配の方が、傍で口を固く閉ざしている姿が痛々しかったのだが・・・新聞折り込みの裏をnote代わりにしていた彼等の姿・・・学ぶ真摯なmanner・・・に、それを批難することは憚られた。しかし、中国の歴史を学ぶ機会にならないことは、甚く残念だった。
気の毒な若者達・・・戦争末期・・・若者を特攻気に乗せ、勝ち目のない戦に失わしめた・・・それに似て、現・共産党政権の生贄にされている様子が、我々日本人には明らかである。だから、日本の若者が、TVの映像に見る、中国のdemo(テロ)・若者に、憐憫の情は感じても、怒りを露わにしないのである・・・私も同様である。
政府に踊らされる国民・・・ちりわけ若者・・・嘗ての「天安門広場」の若者達は、期しながら逆回転する歯車に困惑しているのではないか・・・政府の道具として、棄て石としての国民・・・国民が、乾いたタオルになっても、まだ絞ろうとする政府・・・田舎から出てきている若者も多いのだと報道にあるが、働くべき職場・・・日本企業・・・を破壊する「自己矛盾」に気が付くこともないのだろう・・・奴隷の心情とあれば、自ら学ぶこともないし、無気力な大人が教えてくれることもないのだろうから・・・。権力者の奴隷として満足できる・・・そんな夜がいくつあるのだろう・・・少なくとも、若者らしい未来は見えてこないだろう。それは、そのまま「奴隷の悲しみ」であるが、奴隷自身が感じることはない・・・そして、その子や孫は、やはり奴隷としての運命を甘受させられる・・・悲しさの循環・・・これが、中国の歴史に、我々が読む、中国の歴史でもある。恐らく、この騒動が一段落すれば、日本への不法侵入する中国人・若者が増える・・・そして犯罪も増える・・・その被害を食い止める、我々日本人の力量が問われる時間帯も近いのではないか・・・隣に、巨大な大陸が沈没し始めている・・・。

茶番の報道のannouncer・・・10年後の顔が見たいものだ・・・