「地域通貨」のこと・・・・・

そもそも「通貨」とは、共同幻想の「もの」であることを多少なりとも(私もそうだが・・・)想像しなければ、この話は判り難い・・・のだと、私は、「浜 矩子」氏の著書に思った。そこには、次の様な話が紹介されている・・・・「“通貨”を知れば世界が読める」。
イタリアのある街で、買物のお釣りに使う「小銭」不自由する事態になった。Inflation経済下の「消費税」の為であろうと、私は想像するが、これを詮索することには意味がない。そこで、商店街の店主達がその対策として、お釣りの小銭の代わりに、「小さなスイーツ・・・キャンディー等」を使うことを考えた。これが以外に評判を読んだ。ポケット一杯に「小銭」を入れて歩くのも大変なら、その小銭で買物をするのも大変・・・甘い物好きのイタリア人の故でもあるのだろう。しかし、評判を得たまでは良いが、物事は、良と悪の糾える縄の様なものである。
まず、スィーツの準備が大変・・・客の好みも多種多様であったのだろう。また、スィーツには賞味期限がある・・・常に新鮮なものを準備するのも、商売に一つの労役を課するに等しい。そこで、更に考えた・・・このスィーツを「引換券」にしたのである。そして、それが、実績として「地域通貨」に発展した・・・・と云う話。
著者は、EUROの破綻が、あるいは避けられないと見ているのだろうか・・・私にはそう読めるのだが、チャーチルとクーデンホーフが考えたEurope統合(EU)構想には、通貨の統合は存在していない。つまり、ドイツの封じ込めが、その主眼だったのである。が、アメリカの介入が、今日のEUを誘導したらしいことが、前田洋平著の「チャーチルの亡霊」に読みとることができる。イギリスがユーロに加盟しなかった理由でもあるのだろう。
浜 矩子氏は、「1ドル=50円」時代を予言し、期待もしているのだが、今、ギリシャ問題を観察するに、この事態は、統合された通貨、つまり「広域・通貨」の成れの果てとしか私には見えない。健全な(可能な限りの)通貨の存在は、健全な市民、国民、或いは町民、村民が、その条件である。基本的には、未来を蓄積(預貯金)で実現することは難しい、また、発展性も小さい。大きな夢には、大きなお金が必要になる・・・銀行とは、そんな役割を持つ、人智であり、文明でもある。しかし、返済を前提に借金しても不慮の事態はある・・・その範囲にとどまっていれば、「不良債権」も問題化しない・・・健全な借金で埋め合わせ出来るからである。しかし、返済を考えない借金は、「不良債権」の元凶であり、社会全体を滅亡に追いやる。
その危険性を、可能な限り「小さく」する。ならば、経済の健全性が、小さな範囲の通貨で保たれれば、全体として財政を健全化出来る。そして、その変動は、通貨の交換lateで調整可能・・・浜氏の論旨なのだと、私は理解している・・・
今朝のTVの海外newsで、イギリスのブリストルで、地域通貨が試みられている・・・と、報じられていた。結果も楽しみ、また、浜氏の新しい著書に期待するのだが・・・これぞ地域分権ではないか・・・勿論、不便も弊害もあるだろう。しかし、町であれ、市であれ、県であれ、財政が国家で論じられている限り、その責任を個人に感じることは不可能である。寧ろ、我が街の財政を健全化する努力から、国家の財政を論じようと思えば、財政の健全度についての実感が、市民、町民、県民の肌に直接感じられなければなるまい。

「お上意識」の強い我が国で・・・と、希望は持てないが・・・ブリストルの結果と、次の浜氏の著書には期待したいと思う。