「維新」とは・・・・

西部邁著・「昔、言葉は思想であった」からの紹介である。彼の曰く・・・・
「維新(Restoration)」・・・孔子が編纂したと言われる「詩教」の中の、「周は旧邦なれども、その命は、これまた「維新」なり」という文言から「維新」の語がとられたのであると、紹介する。
そして、英語で、Restorationと云うが如く、その意味は、「復古」の意味を持つものだと説明する。つまりは、「王政復古」のことである・・・・と。そして、英語のRestorationが、「再び貯えること」の意味を持つものである・・・とも。
私が、「日本維新の会」と云う政党名に、あるいは、党首の橋下徹や、一見玄人の政治家として、この政党に身を投じた7人のピエロ(後に9人)達の姿に違和感を覚える所以でもある。
西部邁は更に、「維」の本来の意味は「維=ふさ」におけるように、糸が繋がっていることを云うのだとも説明する。そして、過去と現在が「繋がる」のなら、「維新」とは、「温故知新」以外の何ものでもないと説明する。
その意味では、「明治維新」や「昭和維新」に於いても、「過去の英知」を参照すると言う機運がどれ程のあったか・・・況や、「平成維新」いや「日本維新」においておやであろう。「Re(リ)」と云う接頭語・・・これは、後方に向けて、再びということを意味する・・・と、彼の説明である。
「振り向けば未来・・・」とは、「見返り美人」になぞらえて、歴史学者・木村昭三郎が、記したものだが、もう一昔になるか・・・ある著書の中に読んだ、「後ろ(過去)に100歩、そして半歩の未来へ・・・」と云うphraseが、記憶の中に蘇える。このphraseが、西部邁の、「維新」の説明するところに適合するか、否か、自信はないが、「改革」の代わりに「再構」と云う言葉でも当てておけば、維新の意味が、少しは保持されていただろう・・・と悔やむ、西部の気持ちにはsympathyを覚える・・・のだが。

学校の「虐め」も、明治維新の「落とし児」としての認識が要求されているのかもしれない。一人の、「ゆとり教育」を提唱した元・文部官僚が、先のロンドンオリムピックのメダリストのcommentに、旧来の勝者のcommentに無かった「言葉の色彩」を語って居て、最も激しい詰め込み教育を受けた世代が、今、党代表、総裁を争っている世代だと揶揄する。そして、「ゆとり教育」で育った子供達が、間もなく社会人としてスタートする楽しみを語っている。「ゆとり教育」の挫折は、その教育理念を身に付けた教師を育てないままにstartしたことが、失敗(?)の一つの原因だと、私はかんがえるのだが・・・・、その教育慨念の中には、西部邁の言う「維新・温故知新」の精神が存在していたのではないか・・・。松下幸之助の「塾」出身者の「旧態依然」の対極にあるものではなかったか・・・「維新」を考えるつでに・・・・。