宴(demo、terrorism)の後は・・・・

そもそも「愛国心」を過剰に表現し、それを暴力的行動で表現する国民・市民に、国を大事に・・・つまり、一緒に暮らす隣人への、優しいまなざしなどがあろうはずがない。日本企業の・・・と云っても、殆どが中国との合弁らしいが・・・破壊に熱心な、若者、あるいはもう直ぐ分別あるべき中年になろうかと云う男性の行動は、ただただ“暴徒”であり、結果的には、国民、市民の財産を破壊しているに過ぎない。TVを観ながら・・・「阿呆やなぁ・・・」の感慨だけである。
TVの各局に出演する識者の論調も変化を見せ始めた・・・騒動から一週間くらいは、余り顔をみせなかったのだが・・・その口調からは、中国への投資をしてしかるべき国々の評判が、芳しくないことに中国当局も憂慮している・・・と、云うもの。日本人なら、小学生でも理解できるこの論調が、まったく理解出来ないらしい中国の若者・・・つまり、農村からの出稼ぎらしい・・・の姿が、諸外国のmediaに丸見えになってきたのだろう。
つまり、literacy的には、殆ど裸・・・「愛国」を叫んでいれば、いっぱしのintelligentsiaと自負する所があるのかも知れない・・・日本に時々現れるが・・・が、脳の中は、空っぽ・・・そんな若者であると、つまり、彼等は、自らの生活の基盤を自ら破壊しているだけのこと・・・寧ろ、天安門広場事件の頃からも、可なりな後退をしているだろうと、私は想像する。恐らく、次にdemoが発生する時には、「毛択東語録・・・赤い小冊子・・・が登場するのだろう。文化大革命が終息に向かう頃に出会った中国人に、何が書いてあるのか和訳をしてくれ・・・と、頼んだら、意味のあることは書いてない・・・と、にべもなかった。
Demoとは、国が変わっても、大凡、その様なものである。先進・民主主義国家で、政権が危惧するのは、それが、投票行動に反映され、浮動票と云う不安定な「票」に動機を与えて、反・政権への一票に繋がるからである。しかるに、自由な選挙が存在しない中国で、demoにどれ程の意味があるのか。官制・demoと云われる所以であろう。
本来なら、腹をすかせるのはdemoに暴れる愚衆だから、ほっておいても構わないのだが、空腹は人間を苛立たせる・・・そして、暴力・破壊行動に駆り立てる・・・それを鎮圧・殺傷すれば、似非人道主義者が騒ぎだす・・・だから、体制側が、適当に鎮圧するのである。

今回の破壊の結果に、賠償を求めることは、日本企業はしないだろう。Demoで暴れた愚衆は、恐らく「税金」を自ら負担し、自ら国家を支えている・・・支えねばならない・・・と云う意識に懸けるだろうから・・・政権も、国民・demoをモグラの騒動位にしか考えていないのだと、私は思う。東北のさる大学で、日本に留学している学生と日本の学生との、今回事件の討論会をする光景がTVに放映されていたが、中国からの留学生が全くの無言だったらしい・・・。アメリカで、「原爆の是非」を論じる時に、日本の学生の論調が、その悲惨性だけを論じて、其処に至った本質を論じ切れない・・・その様子に似ている・・・とは、傍で見ていた方の論調だった。つまり、literacyの問題なのである。我々も、他山の石として、学ぶべきは学ばねばなるまい。