国家とは・・・「なにか?」

人間は、群れを作って生きて入る様に見えて、実は、「個」として生きる「生きもの」である。とは、カント著・「永遠の平和のために」を、読めば・・・私の様な無学な人間にも・・・理解できるものである。混雑する乗り物の中で、身体に触る周りの人間が気になる、時に感情を苛立たせる。道を歩いていて、対向する歩行者が邪魔になる。集会なので、勝手なお喋りをする人間の声が神経に障る・・・等々、余程好きな人と抱き合う、あるいは可愛い子供や孫を抱く時を除けば、殆どが、近くに存在する人間は、邪魔な存在である。つまり、「隣り合う」だけで、人間は争いの関係にあるのである。況や「国家」である。
国家は、色々な利害を越えて、一つの利益集団である。その組織の内部を鎮静化させて収める・・・Managementするのが、政府の責務であるが、個々人の、あるいは、一定規模の集団・groupの利害が、政府の行動・理念・思想と衝突すると、其処には軋轢が生じ、「法」に基づく弾圧が加えられる。そして、それが、国家間の闘争に陥らない様に考えられたのが、かつての「国際連盟」であり、今日の「国際連合」である。これを、政界に一つの「国家」のmodelと考えるのが、大きな間違いであることもまた、カントの戒める所である。そして、カントは、こうも云う・・・人間が求める幸せ・安穏には、二つの状態しかない・・・と。つまり、一つは支配の頂点に立つことであり、もう一つは、自らが「奴隷」として在ることである・・・・と。
国家とは、専制国家であることが、強国であることもある。つまり、国民が常に国家の意思にそって行動する国家であり、国家を、つまり、時の政権を安泰に維持するが為に行動する国民が求められる・・・そんな国家もある。つまり、国民を、文明的に遠くの存在にし、政権に敵対する個人、国家を殲滅の対象として、常に、異分子と称する抵抗勢力を排除して、一部特権階級で、統治される国家である。カントの云う、世界が単一国家として存在することの弊害を云う、「奴隷」としての幸せの意味なのである。
国家の外交力が無いから、不足するから、国民をしてdemoに駆りたてる。理念・思想とは無縁の大衆、愚衆でも、政府が、「人民」という、階級的称号を与えて、あたかも、無知な国民をして英雄として称え、その国民の前に「墓穴」が拡大している事には目を向けさせない・・・働いていた工場を破壊すれば、出稼ぎの働く場所はなくなる。他国の国旗を踏みにじり、大使館に破壊活動をし、街の流通に痛手を負わせれば、生活に影響がないはずがない・・・「文明」とは、その格差に興奮(批難)するのではなく、その格差を埋めるべく、あるいは、格差に生じる弊害を克服すべく、国民が市民が学び、努力する・・・時には我慢も伴うが・・・そんな国民に支えられる政府出なければ、何時の日にか、国民・市民は、単に戦場の「壁」としての存在に陥ることになる。

かつて、世界・・・文明先進国・・・の、略奪の「場」、草刈り場としての存在から、自立の国家として発展したことが、今度は、近隣の侵略を、国民のdemoをして行うとする。そんな国家を蝕んでいるのは、その内部の腐敗である・・・それは統治者の中に、政府の中に芽生え、広がるものである。「侵略」に無限の「力」は存在しない・・・必ず「腐敗」が生じる・・・そして、腐敗のenergyは腐敗が進めば、退潮するものである。その時に、被侵略国家に堕するのだが、近代国家が、そんな愚かな国を侵略する「愚」はしない。つまり、静かに「見殺し」にされるだけであろう・・・。国家とは何か・・・今、考える時である・・・と、私は思う。