波乱の予感・・・田中真紀子・・・

彼女の「教育感・観」とは如何なるものなのか・・・興味はある。但し、それが、教師達の喜ぶものであるか、若い母親、父親達の賛同を得るものであるか、否か・・・それは、分からない・・・と、云うより、其処に興味がある。
直感的には、あの父親から「私」がるのだと言う自負はあるだろう・・・これが前提である。父・田中角栄の生涯は・・・否、人生は、その経歴から「学び」の人生であったし、無駄のない「学び」を選択し、そこにenergyを集中させた生涯であったと、私は思う。そして、田中真紀子に、浮いた話はなく、無為にすごした青春期の時間は存在しなかったのではないか・・・きちんとした伝記を読んだ分けではないが、私は想像する。
吉田茂の長男・吉田健一は、父親に犯行の生涯だった・・・と、云われる。Dramaに描かれる程ではないにしても・・・・。吉田茂田中角栄・・・私は、角栄に軍牌を上げる。父親・角栄が「じゃじゃ馬」と評する陰には、父親と四つに組む青春期の真紀子の姿が髣髴とする。何が云いたいか・・・田中真紀子の教育観・感の底を支える彼女のethosの事である。
恐らく、学校を、文部省を責めるだけで、自らの教育観・感を持たない父親・母親には理解不可能なものになるだろうと、思うからである。「為せば成る・・・」そして、為さねば、何事も生れない・・・「為す」とは、ケイタイを弄り回している一日を云うのではない。スマホに大金を消費する事でもない。寧ろ、ケイタイ、スマホの存在が虚しく成る様な日常を過す子供達・・・父・角栄の様な人物は、そんな環境からしか生まれない・・・彼女の信じる所であろう。
ケイタイに送られてくるmessageに怯えることの阿呆らしさ・・・そのmessageに踊らされる友人やclassmateが無視できない弱さ・・・教育が育てるべき人間性は、「吾一人行かん!」の精神以外の何ものでもないし、角栄の人生とは、真紀子の育った環境の教育理念だった・・・と、私は思う。そして、それこそが、あるべき教育の原点であり、理念であり、育てられるべき理性であると私は思う。ただ、残念なのは、共に仕事をする閣僚の全員に、その精神が欠けているのではないかという危惧である。全く駄目な奴は党を出た・・・出る勇気の無い奴が残った、その残った奴への過保護が、今回の大臣就任に見えるからである。

ここでも田中真紀子は、四面楚歌であろう。その四面楚歌の中から何が生れるか・・・楽しみではある。私の希望は、破天荒な「ゆとり教育」への試み・・・つまりは、世の父親をして・・・母親は無理・・・角栄・精神を鼓舞し、大法螺を吹いてもいいから、破天荒な言動を勇気を以って為す様な子供の成長・・・それを促す教育を、私は望みたい。短い期間で完成は不可能・・・ならば、次の自民党をして、田中真紀子を「文部科学省・大臣」にという評価を引き出す様なvisionを提供して欲しい。つまりは親をして「手に負えない子供」の誕生が期待出来る様な、教育環境の構築・・・と、一先ず定義しておこう。