一衣帯水・・・・その恐怖・・・・とは!

「一衣帯水」、「隣人愛」、「遠くの親戚より、近くの隣人」・・・等々、部落思考を持つ我々は、自らの内(心)に、その「憎しみ」を隠して、美しい言葉で、己を誤魔化し、納得させて、現実との妥協を図ろうとする。学校における「虐め」なども、その典型なのだが、其処に思考を走らせる、spotlightを当てることはない・・・何故なら、そんな自分に感じる「罪悪感・・・つまりは、公式主義の世間体でしかないのだが・・・」が怖いのである。
また、自分の中に弱みを自認しながら、己を強化できなければ、憎しみで代用するしか、方法はない。その憎しみに同調してくれる、建前の味方でも現れれば、弱者である己を強者に変身させることも可能である。本来、強者とは、弱者への、建前であれ、慈しみの眼差しを向けて、己のguardをするものだが、それほどの力を持たない、「強者の振り」は、やたらと隣人への攻撃を続ける。それが出来ないと、己の存在感に自信が持てずneurosisになる・・・幾ら騒音を発てても反応しない隣人・・・平然と日常を、普通の人の様に過す・・・の「我慢」に、迷惑を掛けている(故意に)側の自分の弱さに耐えかねて引っ越し(夜逃げと云う)した例も知っている。
「隣」とは、そんなethosに中に共存しなければならない運命を、お互いに持って生存しているのである。カントの云う、「隣同志は争う関係に在る・・・」との言説も、誠に「真」。冒頭の言葉に酔う事の愚かしさをあざ笑うものでもあるだろう。
しかし、「隣人」とは、必要不可欠な存在でもある。冷淡な関係は寂しいし、相手の心中が読めない恐怖がある。また、「親切」を売り物にする隣人は煩いものである・・・何故なら、親切は干渉の裏返しになることが多々であるから・・・。また、出自がことなれば、言葉の理解も異なる・・・それが、「アイツは変人だ・・・」の感情になれば、それは冷戦の始まりなのだが、紛争になるまでは、互いに気付かないものである。木の葉が一枚、己の庭に舞い込んでも、世界中の木の葉が積ったの如くに騒ぐ、小さな木の枝が、庭の堺を越えても、大木の根が庭を占有したかの如くに騒ぐ・・・同じ国の、同じ街に、親の代から隣同士でも、嫁同志が諍いの日々、時には、数代に亘ってお互いに反目しあう隣人同士もある・・・「一衣帯水」的ideologyに「酔生夢死」的信仰生活が招く悲劇ではある。
中国のdemo・・・官制demo・・・の大衆・・・将に「無知」、「蒙昧」の典型である。「愛国教育」は行き届いているのであろうが、日本なら、小学生でも知る「哲学」が無い・・・日清戦争が何故惹起したのか、それまでの西欧列強の侵略にどの様に対応して来たのか、対応の状況にあったのか・・・日清戦争日露戦争を目の前にして「孫文」が立ちあがったのではなかったのか・・・清朝とは「満州族」の支配のことである。無気力な漢民族の恥じるべき歴史ではあるだろう。
存在するだけで、その力である「中国」・・・嘗ての歴代王国は、すべて、建国から暫くは、その存在の大きさで政治をし、近隣を服従させていた。しかし、政権の屋台骨が揺らぐと、近隣への戦争を仕掛ける・・・「来寇」も、またその歴史であろう。

一衣帯水・・・油断が見えれば「侵略」を蒙る・・・その慨念を底に秘めながら、紛争に至らない方法を互いに探り合う関係が存在してこそ、生きるphraseなのである。考える国民と、考えない国民・・・今は、対話も無理だろう・・・闘う覚悟が必要と云う事である。