ノーベル賞;日・韓・中

今朝(10月11日)のTBS・“みのもんた”の番組・ノーベル賞の「日・韓・中」の比較をやっていた。録画がないので記憶を辿りながら書いているのだが、記憶の持続が日々に短くなる年齢だから、幾つかの記憶違い、誤解は、読む側で修正して頂きたい。記憶能力の不足も、低下も、、其処に意図的な「嘘」への動機がなければ、それ程の支障はないだろう・・・日頃の実績に思う所である。
そもそも、「ノーベル賞」は“1901年”に始まっている。近代科学が、18世紀以降だと考えるならば、その国家、民族の新しさ、古さとは、殆ど無関係・・・だと考えるべきだろう・・・と、私は考える。つまり、20世紀をどの様に、あるいは、19世紀末をどの様に20世紀に継承したか・・・その国家、民族のmannerが問われるものであろうかと思う。
日本は、ノーベル賞に時を合わせるかのように、近代化を遂げた・・・完成したと言うことではない・・・日清戦争に、ロシアの脅威(南下・侵略)に備えて、一先ず朝鮮半島をその保護下に置く準備を完成し、清朝の干渉(朝貢)から韓国を解放した。そして、日露戦争に至る政策を強行し、英米の支援を受けながら、近代国家の体制を完了した。その時・瞬間・・・韓国も、中国も、殆ど国家としての資格を有していなかった。つまり、、国家の中に「近代」は存在しなかったという事である。
つまり、「開国」して近代化の道を、政治的にも文明的にも邁進している日本を脇にみながら、酔生夢死を貪っていたのが、清朝(中国)であり、朝鮮(韓国)だったのである。加えて、アメリカと太平洋の覇権を争う姿勢を見せる「ロシア」の南下政策に、全くの無関心だった両国だったのであり、ただ一国、日本だけが、その危機を敏感に感じ取り得たのである・・・歴史に学ぶとは、今在ることの意味を問い、考えることなのである。

韓国は、まだ、ノーベル賞・受賞者が居ない。中国は、文学賞が二人・・・内一人は、国家が拒否している・・・何故“日本”だけとの悔しさはあるのだろう。しかし、尖閣竹島に「熱」を上げている様では、まだまだおぼつかない・・・つまりは、先人に学ぶ気配がない・・・学ぶ人財があっても、政治的に潰される結果になり、先の捏造SE細胞の様な事態になる・・・科学の成果は、基本的には、政治とは無関係であるべきである・・・ソ連のパブロフ如きであってはならない。科学研究の雰囲気は、政治に左右されてはならないのである・・・日本の我々も「他山の石」として、肝に銘じておくべきだろう。
況や、暗記式、詰め込み式の教室が喜ばれる風潮は、所詮、中国、韓国と“五十歩百歩”・・・・直近の甲子園、あるいはロンドンオリムピックの若きアスリートの競技に臨むmanner・・・それが、「ゆとり教育」世代の子供達であることを指摘する識者もいる事を、我々もしっかりと、今後の判断材料として胸に刻むべきだろう。「科挙」の弊害・・・江戸時代が、朱子学を建前として、荻生徂徠の如き学者(実学)が大事にされたことを、忘れてはならない。「自由」・・・江戸時代を通じて、我々の文化であることを・・・。言うなれば、維新、そして文明開化の精神は、「朝鮮通信使」を実現するために渾身の努力をした、徳川家康と、当時の対馬藩主の努力を嚆矢とすること・・・日本の、ノーベル賞受賞との深い関係。静かに考えて見たい。
今朝(10月11日)のTBS・“みのもんた”の番組・ノーベル賞の「日・韓・中」の比較をやっていた。録画がないので記憶を辿りながら書いているのだが、記憶の持続が日々に短くなる年齢だから、幾つかの記憶違い、誤解は、読む側で修正して頂きたい。記憶能力の不足も、低下も、、其処に意図的な「嘘」への動機がなければ、それ程の支障はないだろう・・・日頃の実績に思う所である。
そもそも、「ノーベル賞」は“1901年”に始まっている。近代科学が、18世紀以降だと考えるならば、その国家、民族の新しさ、古さとは、殆ど無関係・・・だと考えるべきだろう・・・と、私は考える。つまり、20世紀をどの様に、あるいは、19世紀末をどの様に20世紀に継承したか・・・その国家、民族のmannerが問われるものであろうかと思う。
日本は、ノーベル賞に時を合わせるかのように、近代化を遂げた・・・完成したと言うことではない・・・日清戦争に、ロシアの脅威(南下・侵略)に備えて、一先ず朝鮮半島をその保護下に置く準備を完成し、清朝の干渉(朝貢)から韓国を解放した。そして、日露戦争に至る政策を強行し、英米の支援を受けながら、近代国家の体制を完了した。その時・瞬間・・・韓国も、中国も、殆ど国家としての資格を有していなかった。つまり、、国家の中に「近代」は存在しなかったという事である。

つまり、「開国」して近代化の道を、政治的にも文明的にも邁進している日本を脇にみながら、酔生夢死を貪っていたのが、清朝(中国)であり、朝鮮(韓国)だったのである。加えて、アメリカと太平洋の覇権を争う姿勢を見せる「ロシア」の南下政策に、全くの無関心だった両国だったのであり、ただ一国、日本だけが、その危機を敏感に感じ取り得たのである・・・歴史に学ぶとは、今在ることの意味を問い、考えることなのである。

韓国は、まだ、ノーベル賞・受賞者が居ない。中国は、文学賞が二人・・・内一人は、国家が拒否している・・・何故“日本”だけとの悔しさはあるのだろう。しかし、尖閣竹島に「熱」を上げている様では、まだまだおぼつかない・・・つまりは、先人に学ぶ気配がない・・・学ぶ人財があっても、政治的に潰される結果になり、先の捏造SE細胞の様な事態になる・・・科学の成果は、基本的には、政治とは無関係であるべきである・・・ソ連のパブロフ如きであってはならない。科学研究の雰囲気は、政治に左右されてはならないのである・・・日本の我々も「他山の石」として、肝に銘じておくべきだろう。

況や、暗記式、詰め込み式の教室が喜ばれる風潮は、所詮、中国、韓国と“五十歩百歩”・・・・直近の甲子園、あるいはロンドンオリムピックの若きアスリートの競技に臨むmanner・・・それが、「ゆとり教育」世代の子供達であることを指摘する識者もいる事を、我々もしっかりと、今後の判断材料として胸に刻むべきだろう。「科挙」の弊害・・・江戸時代が、朱子学を建前として、荻生徂徠の如き学者(実学)が大事にされたことを、忘れてはならない。「自由」・・・江戸時代を通じて、我々の文化であることを・・・。言うなれば、維新、そして文明開化の精神は、「朝鮮通信使」を実現するために渾身の努力をした、徳川家康と、当時の対馬藩主の努力を嚆矢とすること・・・日本の、ノーベル賞受賞との深い関係。静かに考えて見たい。