ノーベル文学賞・・・・幻想

ノーベル自身は、「文学賞」を本命に考えていた・・・と云う説もある。その意味では、軽々しく扱ってはならない「賞」なのかも知れないが、文学等と云うものは、「売れるから・・・」と云う事で評価が定まるものではないし、神の位を授けるべきものでもないだろう。例えば、「丹羽文雄」など、私が30歳代の頃までは、書店に所狭しと積み上げられていたものだが・・・今は、netでもhitしないのではないか。「山本周五郎」等・・・私の好きな作家・・・も、日に日に影が薄くなる様で寂しい。子供の虐め問題がかまびすしい昨今、「さぶ」等は是非読んで頂きたいと思うが、教育問題を討論する識者にも、これらの文学は遠いものらしい。つまり、文学が、「生活」から遠ざかりつつある・・・と、云うことかも知れない。
村上春樹も、莫言も読んだことはない。だから、ノーベル賞の是非を論じる心算はないし、資格もない・・・と、謙虚に構えて、今回の受賞に感じたことを述べて見たい。
ダライラマ高行健・・・は、亡命中。劉暁波・・・は、軟禁を解かれたのか・・・無罪放免になった話は聞かない。何が気に入らないのか・・・政権の邪魔になると理由から、この様な結果が生れて入ることだけは確かなことだろう。それが、今回の「莫言」に至っては、政権も祝電を打ったとか・・・ならば、政府を喜ばしたことになるのか・・・選考委員の資質が問われる、あるいは、機関の信頼性が問われるのではないか・・・平和賞なら、多少の政治性があるのもやむを得ないにしても、「文学」に政治性が絡めば、それは、文化の凋落であろう。中国の「文学」が凋落するのは構わないが、世界に伝播することは望ましくない。あるいは、記事によると、作品中の「性描写」が優れているとか・・・それは、好き好きであろう・・・と、皮肉の一つも云いたくなる。
まぁ・・・日本の生理学賞とのbalanceか・・・と思えば納得できないでもないが、「価値」には、天と地を大きく越える違いがあろうと言うもの・・・。

今、ショウペンハウエルが面白い・・・小さな文庫本で・・・面白いのではなく、高校生の時に全く歯がたたなかった一文字、一行に、多少なりとも納得できる「私」がいるのが嬉しいのである。そして、76年間の人生に、「永遠」と云う夢を見させてくれる・・・もう少し、厚い文庫のショウペンハウエルが読めるか、否か・・・来年の課題ではあるのだが、カントも、デカルトも、その射程に入れておきたい・・・。