尼崎・怪奇事件・・・「絆」とは、隣人とは・・・・尼崎の怪奇

日々、その「怪奇度」を深める事件である。この先、何体の遺骸が発見されるのか、供述されるのか・・・oddsの対象にもなりかねない・・・不謹慎ではあるが・・・。
発見されるまで、その存在が疑われなかった高齢者・・・年金は、亡霊が受給していたことになるのか・・・死して尚、不正を働いていたことになる。身体が失われても、尚、魂は不正を行う。あるいは、不正を強要されると言うべきか・・・・当人は、「殺された・・・」のだから、責任を負わせることは出来ないだろう。しかし、死者をして犯罪を犯させる「生きた人間」の罪は重い。
しかし、その様な犯罪の存在を許しているのは、その局に当る人間(役割を負う)の怠慢であり、その周辺の人々の「差別意識」である。つまり、「変人」として、触らぬ神に祟りなし・・・と、心の地域性から排除してしまったことが、その原因を為していると言うべきだろう。「何処の馬の骨か分からない・・・」。地域で、特定の他者を、物理的存在から、精神的に排除してしまう・・・そのethosは、この列島の住民には強い。「村八分」である。村八分にされる当人の意識があれば救いである。しかし、何となく「存在」が忘れられる、あるいは、有害動物的な存在として、物理的に見えていても、心理的・感情的には「存在しない対象」にしてしまう、その心理である。
隣人同志は、その隣人同士が、お互いに隣人として生活して行かなければならない・・・その意識があって、お互いに耐える(我慢)すべきは我慢する覚悟があって、比較的安穏に暮らせるものなのである。近所同志の「絆」・・・それは、心して付き合わなければ、付き合い出来ない隣人を、そんな隣人だと、お互いに認識した上で、許すべきを許し、我慢すべきを我慢する・・・また、必然性のない「恨み」を、恨みとしない・・・他者としての認識の糧とする・・・そんな「努力」・・・literacyと云うべきか・・・自らを「高める」事で生れる「関係性」であろう。「絆」とは、自らの努力の結果として自らの心に生じる「他との関係性」であり、隣人に求めるものではない。況や、共同体の精神になり得るものでもない。

「温故知新」・・・長い付き合いの中で日常化する「維新」の精神が、今日の隣人から明日の隣人を誕生させる。自らも、今日の己が、明日の、良き隣人となる・・・そこに、「恨み」を介在させてはならない。「恨みは早く忘れる」・・・隣人足る隣人の資格でなければならない・・・と、私は思う。