ダンスが、必修科目になる・・・教師の成長が、子供を成長させる・・・

ある中学校の、56歳の教頭の奮戦ぶりが、今朝のNHKニュースに流れていた。プロを臨時講師にすれば、ことは簡単なのだろうが、それでは、ダンスの授業を必修化する意義が活かされない・・・と、言う教頭先生の理念が、その努力を促すらしい・・・私も、彼ほどの努力をすれば、また違った人生があったのかな・・・と、忸怩たる思いはしないが、この先も、似た様な後悔をしない人生でありたいと、覚悟を新たにした次第・・・
この教頭、もちろんダンス等の縁があったとは思えない、ネットからダンス教室の映像をdownloadして、家で毎日、自己レッスン・・・艱難辛苦の甲斐あって、子供達の前で披露ができた。驚いたのは子供達だったらしい。その姿に、「ヤベー」と、努力のmotivationを掻き立てられている様子が、子供たちへのinterviewの中に垣間見えた。
勿論、プロダンサー、あるいは指導者を招いて・・・と云う事もあるだろうが、基本理念としては、「授業」である姿勢は崩してはならないと思う。一般の課目・・・国語や数学・・・でも、授業の前の教師の準備、努力が、子供達の感情を揺さぶって、一つの授業を成功させるものであると思うし、遠くなった記憶の中にも、そんな先生・教師の姿を髣髴とさせるものである。
失敗と云われた「ゆとり教育」・・・駄目になった原因の大半は、親の無理解・・・「高得点」が得られれば、それが教育の成果だという「神話」に補足された・・・に依るものであろう。また、「ゆとり教育」の名称に怯えて、己の生活に「ゆとり」を失った、浅はかな教師の姿であった・・・と、私は思う。教師になる前に、人・子供を教える、導く己を如何に育てるか・・・そんなことも考えずに、教育大学のcurriculumだけを消化した「教師」のままの教師に可能で在る筈がなかった。件の文部官僚は、ある意味「教養人」だった・・・故に、現場の教師達も、それなりに、個性を有する教養人であると信じていた様子が伺える。
つまり、子供達・中学生にダンスを教える。また、中学生とダンスを楽しむ(授業として)には、何が必要か・・・それを考えるのが「教養」の一つの定義である。かつて、日本・男子バレー(9人制)を、世界のバレーに仕上げた「松平康隆・監督」がいみじくも言っていた。Teamが強くなると・・・良い結果が得られる様になると・・・移動中の選手の姿が一変した・・・と。つまり、列車の中で、飛行機の中で、週刊誌や漫画しか読んでいなかった選手が、新聞を読む様になり、文学・文庫本を荷物の中に入れるようになり・・・それが、そのまま話題になることはなくても、自分の部屋に帰ると読んでいる・・・会話の中に、それが感じられる様になった・・・と。つまり、バレー以外の話題で、私(松平)と、きちんと話が出来る選手になっていった・・・と、嬉しそうだった。
NHK・TVの朝のnewsに登場した子供達・・・あの先生・教頭でも出来るのだ・・・と、そのご力の意味を知ることは出来たのだろう。私は、「教育」と、大上段に構えなくても、大人と子供が出会うとは、こんなことだろう・・・そして、子供が大人になっていく・・・育っていくのだと思う。気持ちの良い朝だった・・・。