みっともない老人達&それに媚びる若壮年そして美しい憲法とは・・・

田中真紀子は、都知事を辞した「石原慎太郎」を“暴走老人”と喝破したが、私は、末期の病床で痙攣を起こした「末期老人」と表現したい。そして、その石原慎太郎に“秋波”を送る、若年、壮年の政治家達・・・そも見苦しさは目に余る。寧ろ、悲劇の到来の近い事を悟りながら、最後の頑張りを見せる“野田佳彦”や、“まだ、腰の定まらない・安部晋三”の姿の方が余程すがすがしい。
次の選挙では、出馬辞退の政治家が数人いるのだが、殆どが70歳代・・・それに比べて、その去就の卑しさ・・・醜さに余りが在り過ぎる。まぁ、これを阻止し得ない、若い世代が情けないといえば、愚痴にしかならないが、その暴走老人・前知事の押す「副知事」・・・彼も、潔く身を引くべきであろう・・・指揮官・・・愚かな指揮官であっても・・・の去るコマンドを、引き継ぐ心算なのだろうか・・・これも、情けない光景ではある。恐らく、有象無象が数十人立候補するのだろう・・・馬鹿でもチョンでも「都知事になれる・・・」、そんな環境が生まれつつある。東京都の没落の始まりかもしうれない。またぞろ・・・京都遷都が話題になるかも知れない・・・楽しみではあるのだが・・・。
それにしても、橋下徹の卑しさは日に日に増しているのではないか・・・右顧左眄、日々是異言(私の造語)・・・「小異を捨てて大同につく」・・・とは、橋下徹も云い、石原慎太郎も云う。石原慎太郎に至っては、考えの違い等はどうでもよいのだ!・・・と、豪語する。しかし、昨今の政治課題、寧ろ「小異」が、実は、「大きなる異」なのではないか・・・知事の椅子に長く座ると、その感性も変になるのだろう。彼の、乏しいらしい脳の中には、「憲法改正」しかない様に、その言動からは推察するのだが、寧ろ、私には「憲法改正」の方が、政治的には小さな「問題・課題」なのではないか・・・
文学者(似非)の彼は、彼なりの美しい日本語で憲法を作文する心算らしいが、彼の文学が、それを信じさせるものであるのか、否か。文学者とは、その自身の言葉を自慢するものではないだろう。読者が美しいと思えば真似もするだろう。あるいは、文章でも、真似するだろう。彼の文学が、書店の棚に何冊あるのか、最近は「吉田健一吉田茂の子息)の方が、余程沢山ならんでいるのではないか。大江健三郎石原慎太郎・・・政治に走る文学者は、「筆」への労力を怠っている分だけ、人間的な堕落は禁じえない。二人共に、みっともない「老人」である。川端康成自死・・・こうなることを避けたかったのだろうか・・・「美しい日本」が消えたままであるのが悲しい!