第三極と大同小異


「最近言っていることが分からない。何か精神衰弱者みたいなところがある・・・」;石原慎太郎の発言。私も、ほぼ同感だが・・・反郵政改革を叫んでいるころから、その発言の真意は掴みかねていただけに、同感できるものがある、しかし、神経種弱者にたいな・・・と云うのは、同病に悩んでいる方には失礼な発言になるのかもしれない・・・
「小沢氏は、民主党manifestの原点に返れと云うが、ばらまきは我々の考えと差がある・・・」;日本維新の会・松井代表の弁。石原慎太郎調で言えば、小沢一郎も、亀井静香に劣らず、神経衰弱的ではないのか・・・「墓穴を掘る」のではなく、自ら掘った墓穴に落ち込んで、這い上がろうと足掻いている様子が伺える・・・最近は、精魂尽きたのか、静かなのが気になる。あるいは、「無罪判決」への自信を喪失しているのか・・・そうだとしたら、悩みは尽きないだろう。
「いきなり同じ屋根の下で暮らそうと言われても、結婚の約束もしていないのに難しい」;みんなの党・渡邊美智雄・・・立ちあがれ日本へのmessageである。
そして、「小異を捨てて、大同につけ・・・」とは、石原慎太郎・・・だが、mediaは、総じて冷淡である。実は、このphrase・・・「小異を捨てて・・・」ではなく、「小異を残して・・・」と云うのが本意らしい。「小異を捨てる、否、捨てさせる・・・」のは、非常に危険な思想である。時に、「小異」の中に真実があり、時には、「大同」で決まったことの結論の瑕疵を救うことも稀ではないのである。
職場の、安全委員会や、事故後の反省を兼ねた「再発防止の検討会議」等で、「少数意見をきちんと記録しておいてくれ・・・」と云われ、納得していない私の顔色を読んだ上司が云ったものである。結論の対策が旨くいかなかった時の「ヒント」は、反対意見、異論、あるいは、無関係に聞こえる発言の中に在ることが多いのだから・・・と。
また、「大同」が、往々にして「最大公約数」であることが多く、「真」が、最小公倍数の中に含まれていることを見のがす要因になることが多いのも事実だろう。「小異」の幾つかが、実は最良であるにしても、その実効性に難があるときは、得てして、無責任に「大同」に付くことが多い。無責任な「賛成多数」の結果なのである。
恐らく、橋下徹が警戒する、最大のhurdleではあるだろうが、我々日本人の最も不得意とするところで在るのかも知れない。その意味では、「敵は本能寺」・・・背後に潜む「味方の刃」への警戒も緩めてはならないだろう・・・橋下徹への「不安」は、案外、その様な庶民の心配かもしれないのである。私は、「小異」を疎かにしない姿勢を見せている橋下徹の本心を、「小異」の中に隠す「牙」に感じるのだが・・・深読みに過ぎるか・・・!