三宅久之氏逝去・・・評価と哀悼と・・・・

彼の書いたものを読んだことはないと思うのだが、mediaへの発言は注意深く読んでいたとおもう。だが、週刊誌的なものに書かれたものは読んでいない。「TVタックル」、「云っても委員会」等の人気番組のcharacterとしては、プロ顔負けの「お笑い芸人」的な活躍で、政治・経済に疎い我々大衆、あるいは庶民を啓蒙した功績は、それなりに大きいものがあるのだとは思う。
しかし、氏自身は、populismへの警告を発しながら、この国の政治をpopulismの方向へ誘導した弊害を消すことは出来ないだろうと思う。
TVタックル」では、司会者のcharacterから、番組の性格に同調せざるを得ないものがあるとすれば、私は、出演してもらいたくなかった・・・この番組が、日本の、「討論・議論・debate」のliteracyの浅い環境で、討論・議論・debateの本質を誤って日本人に敷衍化してしまったのではないか・・・と考えるからである。
また、「云っても委員会」では、田島洋子、橋下徹、或いは原口某等の軽薄なpopulismを喧伝するのに貢献した以外は、庶民感覚の中に浸透する「政治感覚」を歪めてしまったのではないか・・・氏の発言が常に全うであっただけに、悲しむべき「遺産」になってしまったのではないか・・・。確かに、田島洋子のmannerが、日本の左翼の無責任さを如実に喧伝し、社会党(現・民社党)の、日々の衰退に繋がっている功績は認めたいと思うが、田島風政治討論が、巷の冷静な政治討論を不毛にしている現実も無視はできないのではないか・・・3年前の民主党の躍進・その後の無責任な政治姿勢と無関係ではないだろう・・・と、考えるからである。
もっとも、「云っても委員会」では、司会者のcharacterの影響も大きい。大阪の風土といえば、大阪らしいのだが、「TVタックル」と、その馬鹿さ加減を競う形で存在している番組だと・・・私は位置づけしていたが、氏が、両方の番組に、ほぼ主役の位置を持っていることには疑義を感じざるをえなかった。庶民の関心を喚起することに異存はない。しかし、それが、悪戯に大衆化を促進し、傍にいる「お笑い」ならぬ「お笑いcharacter」の存在の一助にしかならない・・・そんな環境の中に自らを置く事が、政治評論家の姿勢だったろうか・・・死者に鞭打つ非礼を返りみずに・・・私は考え込む。

民主党政権交代を果たして3年・・・この間に、私は、目新しい評論家に出会って・・・TVや執筆で・・・いない事を思う。つまり、自らの矜持の大切さを思う雰囲気が醸し出されてきたのではなのか・・・三宅久之の後に三宅久之なし・・・量番組の、あせり、あげきが見え始めた時期に、その人生の終焉を迎えた「運命」をも、私は思う。