被爆地の「牛」・・・・

表題は「牛」にしたが、被爆地で野生化した動物一般のことである。広島・長崎・・・百年は人が住めないと言われたが、翌年の春には「木」が芽吹いた。昭和25年に中学生になった私は、この地で芽生え、成長する「柿の木」を想像して、中学生の「郡・弁論大会」への校内予選の論文を書いたことを、本番出場にはならなかったが、密かな「誇り」としている・・・友人も、兄弟も、家族もせせら笑うが・・・。

最近では、当時、被爆直後・・・数日後・・・に現地に入ったcameramanの訪問が報じられていた。お歳は、85歳以上・・・かくしゃくとして元気な様子だった。勿論、被爆直後には、負傷者の多くが、亡くなっているのは、原爆・放射能の影響であることは間違いのないところ・・・何が、生き残りを許したばかりか、高年になっても元気で生存する条件になっているのか・・・明確な答えはないのだろう。加えて、元気に過し、成長した子供が、小学生、中学生、或いは大学生で発病するcaseも、時にnewsで報じられる。分からないことだらけ・・・と云うのが、正しいのかもしれない。

そんなことを考えてTVを見ていると、福島原発事故の影響を大きく受けた街や農村の風景の中に、野生化した「いきもの」の姿が不思議である。被災から一年間ほどは、犬、猫、鶏、豚、牛・・・結構な数もいたと思うが、最近のnewsの映像には、やせ細った「牛」くらいしか姿を見せない。恐らく、餌がないので、衰弱して死滅したのだろう・・・残酷なことではあるが、己・大事の人間のなんと残酷な事か・・・と、ため息がでる。決して、当地の方々を批難しているのではない。

私が思うのは、彼等の「死」・・・今は牛だけだが・・・を無駄にするのは、人間としての務めを放棄していることにならないか・・・との疑問である。「人間は万物の霊長」である・・・ならば、せめて、人間の失態が招いた彼等の運命・・・家畜として尊厳を失わしめた・・・に、人間の側も真剣に対応する義務があるのではないかと・・・・。

人間の欲望に基づく改良は熱心でも、彼等の「命」に触れる問題に無関心であっていいものか・・端的に言えば、彼らも「生物」としては、人間と何ら差別されるものではない。彼等の被爆・・・その影響をきちんと見極める・・・彼らが、人間に「肉」を提供するだけでなく、その生きなければならない環境の変化・・・なかんずく悪化・・・の影響を如何に受けるか・・・そのモルモット的な、生きものの持つ普遍的な役割を全うさせてあげる・・・その「やさしさ・・・」の欠如を私は、感じて止まない。

それはまた、お互いに「人間」として生きながら、隣人の苦境のも病にも無関心な人間の姿に通じるのだろうと、私は思う。全てが「政治」の責任と逃げるのは容易だが、そこには、「苦」の蓄積が生れ、現実に生きている環境が、そのまま、人間・個々人が、作り上げ・運営されていることへの無関心でしかない・・・夏目漱石の警告(道草)でもある。つまり、被爆地の、野生化する「牛」の姿は、互いに無関心のままに、「政治」と云う気球を眺めている姿にしくはない・・・・と、私は思う。