点検とは何ぞや・・・!

現場で事故が、災害が、そして機械がsmoothに動かなくなると、色々な会議が持たれ、担当者の責任が厳しく追及される。人的災害、それに類する機械的な事故で、時に、監督官庁から出張してきた担当者、あるいは上級の検査官による厳しい追及がなされる。日頃の馴れ親しんだ作業環境しか念頭にない、現場管理者には、辛い日々が続く・・・時に、遠くから出張して来た監督庁の掛かり員の労を労った・・・と、言う噂を耳にすると、今日は、少しは楽かな・・・等と、ろくでもない期待に胸が膨らむ。

19歳から30歳近くまで、現場にあって、体験した色々な事共は、その後の私の貴重な経験になっているのだが、「死亡災害」だけは一件もなかったのは、私の、僅かな誇りでもある。その会議の席上でも不用意な発言、あるいは、上司の監督官庁への説明に矛盾する説明、自己弁護は、己の力量を、周りの関係者や同僚、直接の上司の、私への評価を決めるものでもあり、結果に、一晩中眠れないこともしばしばだった。色々な甚大な事故の報道の影に、私の様な経験をする方々がいて、説明のつかない事象に頭を悩ませ、誰かを庇う説明が出来なかった後悔に日々が始まり、対処不能な事柄への、理不尽に強制される「納得」に悩んでいるのだろう・・・と、newsに触れながら忖度する。

設備の故障、事故は、設計図の中に存在するのだ・・・と、尊敬する設計技術者の口癖だったことを懐かしく想起するが、根本的には、imaginationの力なのだと、私は、その方の説明を拝聴していた。そして、それが、殆ど先天的な能力であり、後付けの能力で十分な対処は不能であることも、今に思うことである。私も、設計承認の辛い記憶が幾つもあって、人災にならなかったことが不思議なものさえある。その都度に反省はしても、これもimaginationの能力として、活かされることは少なかった、情けない記憶である。

完璧な設計図を前に、「問題はないか?」と問われ、「ありません」と答えると、「このboltの交換はどうするのか・・・」と・・・この位置に、この隙間で、交換が出来るのか・・・不具合の物理的な発見も難しいだろう・・・との指摘。「じゃ・・・代案は・・・」となると、経験不足が露呈する。

「点検」とは、不具合を見つけることではない。不具合に至る直前の現象を捉えてこそ、点検の醍醐味でもあるし、重要な使命だ・・・と、現場のmaintenanceの工長さんが、誇らしげに語っていた。「ちょっと止めてくれないか・・・」との申し出を断った時の反応である。故障の前兆は、幼子の「小さな咳」だとも言った。具体的に「故障」を惹起する前に「手を打つ」ことこそが、maintenanceの極意なのだと・・・も。故障が少なくなれば、maintenanceのcostも削減される。要員も減らされる・・・そんな矛盾を解消する「妙手」を、我々の文明は入手していない・・・故に、我々が、文明の隘路を、我が命をもって、購っているのである・・・「覚悟して生きろ!」と、言う事なのだと、私は考える。