かまびすしくなってきた「世襲論」

[[総選挙線が忙しくなってきた現在、またぞろ「世襲論」が顔を見せて来た・・・勝利が見え始めた自民党への「警戒」か、あるいは、「世襲」の実像が見えやすいと言う事でもあるのだろうか・・・。「世襲」を「土着・政治家」と見るならば、都市住民化した武士の「土着化」を提唱した荻生徂徠の政治・政策論が、あるいは参考にもなるのだろうか。
綱吉のbrainでもあった「荻生徂徠」は、経済の立て直しに、「武士の土着化」を進言したと言う。しかし、この提案、全く無視されたらしい。理由は、雄軍割拠の戦国時代への逆行によって、徳川的専制支配を崩壊させるものでもあり、徳川政権の不安定化を招く、大きな要因になることを警戒してのことだろう。その意味では、「世襲」は、地域、地方の政治情勢の安定化を、中央の政治の安定化に寄与させるものであるのかも知れない・・・この説に固執するものではないが・・・。

反面で、進歩を阻むのが「土着化」である。昨今、「暴力団」と云われて、一般社会から差別される、「ヤクザ」世界が、XX組と呼ばれたも、所詮は土着のヤクザであり、全国ネットの指定暴力団のnetworkに繋がっているだけである。それだけに、警察・司法の「モグラ叩き」的手法が功を為さないのであろう・・・と、私は推理する。
西欧、なかんずくアメリカのMafiaが、日本のヤクザに比べて、globalに一見され、実業界、経済界への浸透が、日本とは比較にならない深さにあることと比較すれば分かりやすいのかも知れない。
しかし、日本ヤクザでも、アメリMafiaでも、その頂上は実力主義・・・地域の政治情勢が、Mafia的になれば、「世襲」も姿を消すのではないか・・・「フザケルナ・・・」と、お叱りを受けそうだが・・・。

国民が政治に無関心になり、「我れ行かん!」の気慨を見せない昨今、政治家の背中・・・父であり、祖父であり・・・を見ながら育った青年・息子・娘が、政治家を志すのは当然でもあり、喜ばしいことでもあるのではないか。これだけ、がんじがらめに縛りをされていても、政治家を志す・・・この意志・気持ちを一先ず認めて、「世襲」を考えて見たい。

戦前、私が成長した戦後と言われる時代・・・大人から認められるのは、少年にとっては「誇り」だった。もちろん、此処を足がかりに「悪」の世界に入る少年もいた。しかし、大人の世界の、善も悪も学びながら、世情の変化・新しい世情への対応を学ぶのも、大人の世界に触れる、新しい感性の特権だったのである。そして、大人の目に止まり、色々な経験・体験をさせてもらいながら成長する・・・・もちろん、途中で駄目になる子供・少年もいる・・・そして、chanceを掴めば、政治家への道も開ける。この様な環境が存在した時期は、続々と、独立系の政治家が誕生したのである。そして、現在「二世、三世」と言われる、現在の「世襲政治家」の存在があるのである。つまり、「易きを辿る」子育ての蔓延・普及が、今日の「世襲政治家」を定着させたとも言える。所詮、地域が、国民が誕生させ、此処まで育てて来た「世襲」だと断定しても、聊かの反論もないだろう。

いま、子供を、背中に隠しながら、無気力な子育てをする母親が多い。地域で、何事かに手を出そうとする子供がいない分けではない・・・しかし、brakeは母親であり、情けない父親である。例えば、分別収集のstationに、中学生・高校生、あるいは大学生が、高齢者のお手伝いとして働いてくれる姿があるだろうか。残念ながら、私の地域にはない。元気な高齢者が、飲料缶のcontainerから、アルミ缶を選別し、それを換金して、身体の不自由な高齢者の世話にあてている・・・つまり、巡回のクルマの燃料代にあてているのである。子供会は、自分達の活動費の為に、地域住民に、アルミ缶の拠出を求めても、それを弱者・高齢者の支援に使う気持ちはさらさらない・・・婦人会も、またしかり・・・。「高齢化」が日常的に叫ばれても、自分の身の周りの高齢化に関心を持つ子供は皆無・・・自分の両親が「高齢化」することにすら無関心なのである。足腰の弱った両親に、厖大な「粗大ゴミ」を残して家を捨てる・・・政治意識等は、皆目持たない。現・世襲政治家に異論を唱えることが恥ずかしくないか・・・君は、どんな青春を送ってきたのか、何を考えて成長して、今日があるのか・・・老いた母親・父親と、愚痴しか出ない壮年の己と・・・世襲を批難する前に、異論を唱える前に、自らを恥じるべきだろう。

この様な場面で働く姿・・・それが、政治家を志す要件であろうし、この場所から見えて来る世情は、政治家を志す「人」の栄養でもあるだろうし、政治家としての期待を集める要件でもあるだろうと、私は思う。
世襲政治家は、「技巧派」である。彼らが訴える政治理念は、広くても、中身は薄い・・・庶民の地域の実情と世界の実情との格差をきちんと捉えることは容易ではない。政治家・父親の背中の「庶民感覚」は、自らが政治家を志した時の栄養の滓・・・使い古し・・・である。その背中を見て育つ、世襲政治家に、初代政治家の感覚・理念をもとめるのは、ないものねだりであろう。

己の求める「政治家」は、己が輩出しなければ、誰が輩出するのか。己の求める「政治家」は、己が育て得ずして誰が育てるのか・・・・「世襲」を批難する前に、己の胸に問うて見るべきであろう。「世襲」を蔓延らせている現況は、政治無気力感覚の大衆であることを、自らが・・・私も含めて・・・認識して、明日の、己の政治姿勢に一考に寄与すべきなのである。]]