高齢者虐待・・・40%が息子と言うニュース

多少なりともrealityをもって述べたいので、私の体験に即して・・・全てを述べることは不可能だが・・・「息子、なかんずく長男」の立場で記憶を辿ってみる。

私にも、覚えがないわけではない。恐らく、虐待している時の感情を思い起こすと、両親・・・とりわけ母親・・・への、積年の感情がそうさせるのだろうと、その時、その時の事後の反省の中に思い、その思いのなかに、自己を解放し、癒してもいたと、数年前までの介護の日々を思う。その意味では、私は、在宅介護には疑問を呈していたし、自分の両親の資質からして、在宅は無理だと、比較的早めに心に決めていたし、妻との合意もしていた・・・長男は、両親との共生の時間が長く、年少の今日だと両親の関係を眺めながら、己と親の距離感を、案外と性格に把握しているものだと、私は自負するのだが、その意味で、両親の、己、そして年少の兄弟との距離と、その中に通う感情も可なり正確に把握しているのだと思う。勿論、そこには、潜在的な感謝に基づく親しみと、その反対側のtraumaが同居していることは、言うまでもない。

家庭を持てば、暫くの帰還、年少の兄弟達との立場も大きく違ってくるのだし、そこに、「妻」と言う立場の、親、兄弟達にとっては、他人が存在するのだし、そこに存在する、「肉親」優先の感情との軋轢も当然生れる。その感情は、両親の最期を看取ることが、ほぼ義務付けられている長男(それに近い兄弟)とは、一線を画した感情とならざるを得ない。恐らく、虐待を経験しないままに、介護への感謝を持ちながら旅立つ「親」は、良く理解できている親であろうと、私は理解する。

妻には、「嫁」という立場の、近場や、介護の必要な両親と日常茶飯事を無関心に過している・・・加えて、時たま遊びがてら訪れる(介護の「か」の一字もしない)、夫の兄弟たちへは、その訪問を感謝し、喜び、幾ばくかの「小遣い」まで渡す・・・殆どの識者・評論家が、この点を指摘することはない。故に、「介護問題及び介護に纏わる人道的問題」に言及することなく、表面上の軽薄な議論・討論に堕していて、問題の解決の方向にはならない。TVに紹介される、報道される「在宅介護」の、微笑ましい光景が、どのくらいあるのか・・・少なくとも、私は、「在宅介護」は望まない・・・現在を、自分なりに、可能な限り楽しんでおけば、在宅介護に固執する理由はないだろう・・・と、私は思う。

私の場合・・・時に、妻の手が塞がっている時、私が対応することもあったと言う程度の介護の経験だが・・・在宅状況の間・・・もう認知症も進んでいて、殆ど聞き分けがなく・・・・それでも、親としての優越感情は残っていて、激しい感情で抵抗することがあり・・・「誰に育てられたと思っているのか!」と、何度、怒鳴られ、物を投げつけられたものか・・・。思わず「拳」を振ってしまう・・・妻からは厳重に注意を受けていても、自分の感情を抑えきれない私が、そこにはいた。

得てして「男の子」に要求される「親離れ」とは、息子も「独」、親も「独」でなければならない関係なのだが、その「独」とは、己の生きる環境は自分で選ぶ・・・選ぶ能力を失った時は、従順に・・・のが本来の姿だろう。その見極めも出来ずに「在宅介護」を望むのは、理不尽というものではないのか・・・目の前の自身のこととして考える。

在宅介護を望みながら・・・施設介護に不満を募らせて、安らかな最期があるのだろうか・・・施設介護なればこそ、最後にお世話になる方々への感謝が出来る様な人間として、その最期を迎えたい。「高齢者虐待が息子に多い・・・」とは、生前に息子に見せていた、親の特権としての“傲慢”が、そのままboomerangとして、身の上に降りかかってくることを云っているのではないか。

「人生は選択である」と、シーナアイエンガーは、その哲学にのべているが、全てが、己の選択ということでない。在宅か施設か・・・つべこべ言うのは止めよう・・・運命なのだから・・・その達観があれば、施設に見舞う息子への感謝が、息子の気持ちの中に「優しさ」を芽生えさせる期待もあるのではないか・・・私は思う。