棄権の論理・・・・とは・・・

街頭でマイクが拾う「棄権の論理」は、あたかも“棄権”が権利の如くの取材されていて、これこそが、選挙に無関心、日常の政治への視点の欠如を「肯定」するものになっているのではないか・・・この様なmannerには、「選挙」の存在しない中国の如き国家の状況を選択するのか、あるいは称賛するのか・・・についても、その考え方を拾うべきではないのか・・・茶番である、対立点が見えない、信頼できうない、何も変わらない・・・等のnihilな感情表現が、あたかもintelligentsia的な自己主張に見えるらしい事への満足感でもあるのだろう。

「まぁ・・・いいでしょう!」としか言いようがないが、その様な「棄権」を、評価するが如き大騒ぎに、私は危険を感じる。つまり、選ぶべき論理も意思もない・・・「白票でもいいから・・・」と言うに及んでは、「ふざけるな!」と怒鳴りつけたい・・・酢mおそも、国民皆兵の様な「選挙権」の与え方が門だなのだが・・・もし申告制にしたら、その時点で「選挙の信頼性」が失われるのではないか・・・17年前までの現役生活の中での、飲み屋のカウンター議論を思い出す。行政職員の多くに、この論に賛成するものは多かったことは以外だったが、友人は、「あいつらは市民を見下している・・・」と憤慨していた・・・懐かしい記憶である。

小党分裂・・・誰に、どの党に一票を投じて良いのか分からない・・・そんな馬鹿な話はないだろう。そんな料簡だから、オレオレ詐欺に引っ掛かり、詐欺師の魔手の手に落ちるのだろう。現在が、過去の蓄積であることを認識しておけば、雨後の筍の如き“小党”も、その内容、資質、品質、そして軽薄さのレベルを見極めるに不自由しないdataは放出しているのである。
何故、今回の解散になったか・・・それは、少しでもnewsを視聴し、読んでいて分からない筈がない。確かに、民主党との違いを主張する自民党の主張を理解する、信用するには、一抹の不安もあり、棄権もある。しかし、何故、その様な現状が存在するのか、自分なりに分析・判断・選択すれば、棄権の理由にはならないだろう。つまり、“棄権”とは、「脳」が活動していないだけのことではないか。あるいは、ニヒルに構えた格好良い(実は醜いアヒルに過ぎないのだが・・・)と、思い込む、浅はかさでしかないだろう。表現を変えれば、「子供じみている・・・未成年」と言う事であろう。

中国人の様に、時に暴れて“ガス抜き”をさせる必要もないのが、選挙に棄権して「粋」がっている日本人である。かつて、正規社員から「派遣」に転じる姿が、「粋」に見えた時代があった。確かに、瞬間的には、20年、30年、うだつの上がらない地位にいる人々には、羨ましく見えた。退社して行く姿は格好良かった。しかし、5年もすると、道では、私を避けていた姿が哀れだった・・・そして、「派遣」が、圧力容器の制御の為に捨てられる(ガス抜き)ガスの様に捨てられる様になった。「派遣」は、経営者に便利な手法を与える発端であったのである。「棄権」が、民主主義の崩壊の前兆にならないか・・・決して、彼等を容認しても賛美してもならない・・・私は、そう思う。