「交流」と「拘留」を考える

「交流」とは、原則として開放された国民・市民が、「枠」・・・国家、民族、生活圏等々・・・を超えて交わることである・・・と、浅薄な私の知識で一先ずの定義をする。そして、「拘留」とは、支配者、支配の組織で、被支配者の自由を奪うことであり、強制的に、あるいは恐喝的に、支配の傘下に組み入れ、政治的自由を奪うことである。如何に、日常を贅沢三昧に生活していても、その支配者・支配のsystemを選択する権利・自由を奪われていては、与えられないでいては、それは、奴隷状態であり、支配の権力に依る「拘留」状態にあると言うべきだろう。

新聞・columnに依ると、沖縄・・・記事では「石垣市八重山」・・・には、琉球華僑(台湾華僑)が、4,000人程も住んでいるのだそうだ・・・一部は、日本国籍を取得。
日本の台湾統治時代に石垣島に渡り、終戦後もそのまま残った、在日台湾華僑なのだと言う。

読んだ記憶だが、日清戦争後の処理の中で、日本が「台湾」についての地位協定を定めようとしたところ、中国・清朝は、化外の地として交渉の対象としなままに、日本の統治がなされたのだと言う。もっとも、当時は、この地には、数十の部族が割拠して、お互いにその勢力を争っていて、言葉も部族毎に異なり、「文字」を持たない文化では、殆ど交流が不可能で、勝つか、負けるかの争いが続けられ・・・その勇猛さが、日本の南洋諸国の侵略の先兵として利用されたのだが・・・争いの決着は、捉えた捕虜の首を取って(切り)きめられたのだと言う。
そこに、日本の統治が始まり、日本も、当初は手を焼いたらしいが、彼等に「日本語」を教えることで、言語の共通化を図り、加えて「文字」を教え、習得させることで、争いが生じても、その決着に「約束・契約」をすることが可能になり、「首狩り」の風習も姿を消したのだと・・・。台湾に、文明の時代に相応しい文化を定着したのは「日本」なのだとは、決して誇張でもなければ広言でもない。

学校systemを定着させ、もともと賢い民族だし、文字を中心にお互いの信頼も生れて、日本の統治の時代は、一体に平穏であったと言われる。今は高齢になっていて当時を知る台湾人が、日本を懐かしむ所以がここにある。悲劇と言えば、寧ろ、国民党が、中国大陸から、この島(小さな大陸?)に逃れてきてから始まったとも・・・後に、共産党に参加する若者が多く輩出してのも、この日本化の過程で育った若者であった故である。番族のままでは、唯、毛択東の「盾」でしかなかったろう・・・台湾人(元・番族)の、元・小学校校長は述懐する。そして、日々消滅していく「日本語」に、固有の文化の喪失であるかの様な、嘆きを見せる。石垣島の台湾華僑も、その様な台湾人の末裔なのだろう。馬英九総統の、「台湾は、尖閣列島を欲しがっているのではない。ここの漁場から締め出されることを怖れるのだ・・・」というcommentも、この文脈の中で理解すれば、国境に拘る排除の理論にも少々無理があるのかな・・・以前にも論じたが、近代的な、そして未来志向の「国境倫理」の構築が、新しいglobal理念の構築に繋がれば、世界は一歩先に進むのかも知れない。

しかし、全てを、他への信義に頼っていて可能なのか・・・「人間は、隣人とは常に対立の関係にある云々」のカントの言説に全く違反するのが、我が、日本憲法の前文である。自ら、相手の前に立ちはだかるのも「信義」である。「出るか!」、「出ないか!」

自国民を「拘留」状態にしておいて、他国と「交流」もないものだと思うのだが、「中華人民共和国」とは、秦の始皇帝が、五族を「中華」として帝国を建設した、その統合が未だ成らず・・・と理解すれば、気の毒な国家ではある。
しかし、中華が、300年以上の王朝を維持したことはなかったのではないか。フビライにして、日本に信仰して、百年を維持できなかったのではないか・・・古典の引用は盛んでも、「温故知新」を忘れた、民族の教養・・・歴史なきところに未来はない。漢族優位の都市の発展が、周辺の五族の生活を豊かにしても、その差を縮めることは叶わないだろう。何時かは分裂の運命にある・・・もう、先進国が侵略することもあるまいが、自力で治癒しなければならない病人の例えでいえば、弱ったライオンに餌を運ぶ弱小動物もいない・・・苦しむ期間は長くなり、希望は遠く、道は果てない・・・・共産党・一党支配の崩壊の時、中国大陸は「阿鼻叫喚の巷」となるだろう。

交流を忘れた拘留の政治文化の末路でもあるだろう・・・それに巻き込まれない「教養」の蓄積・・・これぞ、我が日本列島の安全保障であるだろうと、私は思う。