投票率・・・考

今回総選挙の「投票率」は、民主党の凋落が目に明らかに見えていた為に低かった・・・と、私は考えているのだが、周辺の人々の話は、「選挙の争点が見えなかった・・・」と、TVや新聞が報じていたらだと言う。つまり、TVや新聞が、「投票先を教えてくれなかった・・・」為に、投票にいけなかった・・・と、情けない返事が返ってくる。私は、今回の総選挙程に争点の明確な選挙はないと、考えていたし、誰に、どの政党に投票するか・・・迷うことはなかった。

そんなことを考えながら三が日に読む本を探していたら、「国の死に方・・・片山杜秀著・新潮新書」に出会った。そこに、普通選挙が始まった当時の、浜松市の話が以下の様な話が紹介されている。

納税金額による制限を撤廃した所為で、浜松の有権者の数は桁違いに増えた。
その数;2,000人から⇒⇒15,463人へ・・・・
その投票日は嵐だった。先行きの危惧を他所に、投票場には朝から行列が出来た。終わってみれば、棄権者は「1,599人」。投票率は「90%」。
静岡県知事は、市民の義務観念の強さ、政治意識の高さを称賛した。

しかし、浜松市の有力者は次の様に語った・・・棄権の少なかった真の事情は、極めて単純である。投票率の記録的高率は買収が如何に盛んに行われたかを記録するものに他ならない・・・と。その意味で、この投票率は、普通選挙法の失策を表すものと言わざるを得ない・・・と。更に・・・・
選挙民は、票は売買するものだと信じ、これを売らねば損だと考えている者が多い。投票権の拡大など、“百害あって一利なし”、判断力の乏しい選挙民ほど、この世で危険なものがほかにあろうか・・・と、手厳しい。加えて彼は言う・・・・選挙民の判断能力が劣悪であるならば、候補者のとる戦略はまず“小口買収”であり、次には、実行できるはずもないその葉凌ぎの口約の連発である・・・と。


まさに、「自民党民主党」の政権交代を惹起した“manifest選挙”を予言する様な言説が続く。今回、50%余の投票率を嘆くなかれ・・・“心を躍らせるmanifest”がなければ、投票が出来ないと嘆いた一票には無縁の選挙であっただけで、きちんと一票の意味を理解した「純」な判断に依る投票率と考えれば・・・勿論、populismを求める不純な混ざりものもあろうが・・・私は、良好な投票率と判断すべきだと思う。

そもそも、1,000そこそこのdataで算出される世論調査・・・そのdataで、自民党の圧勝は予測されていたのである。TVも新聞も、あるいは、評論家も学者も、「自民党圧勝」を報じていて、ワイドショー・newsだけが、その結果を「予想外」と報じたのではなかったか・・・サンデーモーニング関口宏に至っては、「開いた口が・・・・」と、塞がらない程に驚いたと言う。私は、そんな奴が、ワイドショーとは言え、news番組のcasterを務める「厚顔無恥」振りにあきれるのだが・・・。

前述の様な実情から推察するに、私は、投票率は10%程もあれば結構ななのではないか。Populismに踊らされて、目の前に“美味しい人参”が見えないと嘆く様な一票に、選挙に参加させたくないし、参加して貰いたくない。
「買収」が無くなった分けではない。Populismとは、姿を変えた「買収」である。僅かに希望があるとしたら、前回選挙に圧勝を齎した民主党・populismは、選挙民が「醒めた」時、その欺瞞性に気づく様な粗末なものであったと言う事である。僅かに、大衆が政治を超えていた・・・あるいは、希望かも知れない。