sports・spirit・・・とは!

今朝の購読紙のcolumn・・・星陵高校・松井秀喜明徳義塾高校・河野和洋の二人の対照だった。

甲子園の対決は、河野投手が、打者松井を、5打席連続して敬遠。今、松井は、その野球人生に幕を引いた。そして、語った・・・「あの試合が原点だった・・・」と、そして、「敬遠も立派な作戦なのだから・・・」と。
方や、河野投手・・・今は、社会人クラブの監督兼選手(背番号「55」を付けて)なのだが・・・「あの時、彼は既に大人だった・・・」と語る。

私の様な下司が思うに、甲子園のマウンドで、河野投手は歯ぎしりをしていたのではないかと・・・つまり、彼は勝負したかった・・・のだと。勝負させなかった、当時の監督の心の内を伝える言葉を私は聞いたことがないし、それを伝える「言葉」を聞いたことも読んだ事もない。

敬遠を命じた監督の脳の中には、「負けへの恐怖」があり、勝負に掛ける学校の名誉があり、己の人生の中にも、この一勝が欲しかったのであろう。おそらく、悠々迫らぬmannerで応じた松井の心根も、監督の名誉を思わないでもなかったであろう。良監督の、その後のcommentも、私は聞かない、読んだ記憶もない。この先、うん十年後に、監督としてのお二人の記録が公開され、あるいは、日記等が公開されることになれば、また、「sportsmanship」に関する議論が再燃するのではないだろうか。
再燃して欲しいと思う。

real timeの勝負に拘るのは、拘らなければならないのは、「人間の性」である。しかし、その「性」を超えた所にある目標は、時に「名誉」である。
Trickが何処まで許されるか・・・難しい課題ではあるだろう。「隠し玉」、「sign play」、その「sign」を盗む技術・・・等々。しかし、それはruleである。松井が言う「立派な作戦ですから・・・」の一言も、その意味からは、5連続敬遠を恥じる必要はないだろう・・・特に、野球は、最終的には、Team playなのだから・・・松井の次に、松井並みの打者が居れば、「敬遠」はないのだろうから。

しかし、恐怖で選手を鍛える・・・かつては、同じ様なボートクラブの経営者がいた(今も存在するらしい)。荒れる高校を、rugbyで立ち直らせた高校教師が話題になったこともある、そのdocumentaryには、暴力は虐めは描かれていなかった・・・不良化した高校生を立ち直らせるのである・・・シゴキがなかったとは言い切れまい。しかし、彼等高校生は、その結果を出した。恐らく、指導者の名誉よりも、子供に「名誉」と言う事を教えたかった指導者の気持ちが、その成果を出さしめたのだと私は思う。

今回のキャプテンの自殺。指導の顧問の至らなさもあるだろう。しかし、Teamの成績に一喜一憂して、顧問を称賛し、次を期待し・・・言うなれば、永遠の勝者たるべく要求をし続けた父兄に責任なしか・・・自殺した高校生の胸の内にも、自分がくじけることで、あるいは、身を引く事で、Teamが勝利から遠ざかるかも知れない恐怖があったのではないか。疑ってしかるべきだろう。

余談になるが・・・私は、甲子園のスタンドに、暑さに耐えて、熱心に応援する子供達の姿に感激する。選手は、何億円の契約金を手にする子供もいるだろう。進学、就職に有利な「権利」を得る子供いるだろう。しかし、汗で、濡れ鼠になった、応援席の子供達に、何が当られるのだろう。青春の一ページも大事だろう・・・いや、選手以上に貴重な記憶であり、青春の、無垢の一ページではあるだろう。その意味では、ここに子供を送り出している父母の、祖父母の幸せを思う。いや、「幸せ」を思って欲しい。


しかし、その空気が、指導者をして、暴走させる・・・そこは、指導者個人の資質であり、その資質を劣化させる、教育関係者、政治家の存在だろう・・・と、私は思う。その意味では、指導者もまた、被害者なのかも知れない。