何故語らない・・・その卑怯さを思う。

何人もの教師が目にしている。部員も、その他の子供達も見ている。そして、事件後ではあるが、それを虐め、虐待、軽く見ても「やり過ぎ・・・」と判断している。しかし、誰もそれを「変だ!」とか「危ない・・・自殺を誘発する可能性・・・」とか・・・どうも考えもしなかったし、日常茶飯事の光景として眺めていただけの様子。場面も、事象も、あるいは時代も違うが、私の「虐められ体験」から、「もし、この子が、顧問に歯向かったら・・・あるいは、顧問を圧倒して怪我でもさせたら、あるいは、顧問の命を危険に晒したら・・・mediaはどの様に報道したのだろう。世間は、どの様に受け止めたのだろう、あるいは判断したのだろう。恐らく、この子は、四面楚歌の中に立ちつくし、親子共々、世間の大booingを受けたのではないか・・・そして、同情は顧問に集まり、顧問の暴力は正当化され、世間の同情を集め、過去の戦績が功績と称えられ、学校の歴史に、大きく顕彰されるのだろう。

二つの命が交錯して、一つの命が失われた。亡くして“称えられる命”と、単に被害者とされる命と・・・そのjudgeは両者ともに世間である。また、報道も含めて・・・
地域の公園で、地域の子供達が、soccerのcoachを受けている。幾つかのTeamがあるが、groundには、母親の姿が多い。そして、黄色い声を子供の背中に浴びせている。父親の姿はあっても、一般には静かである。そして、groundには、coachの罵声がひっきりなし、groundの子供は、「サッカーボール」よりも、coachの顔色を伺っている・・・これで、強くも成りそうにないな・・・私の感想である。勿論、旨くもならないだろう。そして数年すれば、記憶にも残らないのではないか・・・見学の私の感想である。

何故なら、groundの中の子供達は、それなりのetiquetteを弁えて行動している。が、控え、見学に回った子供達の行儀は決して良いものではない・・・。そこには、普通の子供がいて、行儀の悪さが目立つだけである。
現役の頃、同じ駅(JR)から、近くの高校の野球部員が乗り降りしていた。一年でも先輩だと、周りを憚らぬ大きな声で“挨拶”をする・・・ヤクザ紛いの行動である。真に、好ましい先輩・後輩の姿である。が、高齢者が、座る椅子を探していても、その椅子には、高校生の野球道具を収めた袋が置いてあって、その挨拶の様子から恐怖を感じている高齢者は、一言の言葉も発することが出来ない。また、時に、注意をする方が居ても、人気のない時に、件の学生と出くわすと恐怖を感じるのだと・・・語っていた。

Sportsが、強い身体に、強い精神を育てる・・・そんな、sports精神論が蔓延る、我国のsports会である。まだ、昭和の軍国moodの中にあると言っても過言ではないだろう。そして、僅かな、何人かがプロの道へ進む・・・そして、mediaが英雄扱いをする。
彼らが、mediaの身勝手な報道の犠牲になるのは、時間の問題なのだが・・・それは、多くの同輩を犠牲にしてきた青春の報復だと宣う評論家もいる・・・sports音痴の私も、羨望を含めて、そう思う。横暴を極めた体育の教師に右顧左眄しながら、殆ど予選を勝ち抜けないチームを支えたclassmateが、その思い出の中に、件の教師を高く評価しているらしい言動・・・クラス会を嫌悪する知人の感情である。

虐め、暴力の陰に、必ず「右顧左眄」する無見識者がいる。ご機嫌取りがいる。今回の大阪の高校・バスケットクラブでも例外ではないだろう。一人で殴られれば10発でも、三人で殴られれば、5発以下になる・・・そんな知恵も働かない「獅子身中の虫」なのである。そこに、被害者にならない為の知恵を授ける母親が、父親がいる。他人を犠牲者にすれば、我が子は勝利者なのである。そして、勝者に藻敗者にも共通する“もの”は無言である。「祟らぬ神に祟りなし!」・・・しかし、己を卑しする病魔の侵入と浸潤を防ぐことにはならない・・・何処かで、己が滅ぶはずである。「祟り」である。