夫源病・・・

“夫”が原因で妻が病気になる・・・その病気の事を言ううのだそうである。その“夫”を「病源夫」と称する・・・今朝の新聞の「家庭欄?」に記事があった。学的な統計は、まだ不十分らしいが、この種の治療に当る医師の間では、公知の事実であるし、無視できない患者数なのだとか。それなのに、男性に比べて10年以上も長生きする女性・・・この関係については述べられていなかった。統計とは、別の概念なのだろう。記事の中には、50%にも及ぶと言う、「早く死んで欲しい・・・」という妻の言葉も紹介されていた・・・・しかし、その様な女性に、今回、アルジェリアで犠牲になった“男性”の生き様はどの様に映るのだろうか・・・犠牲者の妻や家族に、涙の悔やみはあっても、男性に課せられた「運命」として評価する気持ちは機能しないのではないか・・・

日本の「武士道」と、西欧の騎士道」。武士道に、女性の影は存在しない。使命を帯びた「男」の生き方、精神であり、どちらかと言えば、精神的、内面的、内向的なものである。自身の精神性を高め、自らを律し、己を犠牲にすることを厭わない・・・その犠牲も、騎士道に、私達が聞く様な、対象を女性に限ることはない・・・寧ろ「忠」の概念からは、社会的な価値としての精神性であると、私は思う。それに比して騎士道は・・・至って個人的、忠の精神も、公的なものよりも、私的な主従関係の中に強調されるものであり、武士道との顕著な違いは、武士道は、その視野に「女性」を置かないが、騎士道は、その下心も含めて、女性が、その忠誠の対象となる。

夫源病も、病源夫の存在も、日本人男性の育った環境の中に、守らなければならない価値の中に「女性」が、なかんずく「妻」が存在していなかったエトスに、その原因を持っているのではないか・・・。
日本の男性・・・夫と呼ばれるよりも「父」と呼ばれることを喜ぶ・・・私もそうだが・・・。それは、家族主義のエトスに他ならない。
実は、妻も、夫よりも子供を大事にする。その裏にあるエトスは、子供を育てる役割としての夫であり、夫不在の父親の存在の価値観なのだと、私は思う。父親の洗濯物が、洗濯機の中で一緒に現れることを嫌う、特に女の子は、今も多いと聞く。成人後に、大学進学を機に、一人暮らしをする傾向も、時に洗濯機の中で混在する「父親の下着、靴下、ハンカチ」があると考えると、問題の将在が明確になる。

父親を嫌悪し、長時間働き、外での友人との付き合いに多くの時間を費やす夫・父親への生活マナーの中で、嫌・夫、嫌・父親の素地が培養されていると考えると、理解は早い。しかし、夫・父親にとって、それは容易には改められないものであろう。
働く事で、学びのチャンスに恵まれない日本の男性・夫・父親にとって、友人とのアフター5の付き合いは、貴重な情報源であり、自らを磨く「道場」でもある。毎晩、家庭にあって、近所隣りの噂話、子供の学校の母親の付き合いの中の愚痴・・・子供でさえ嫌う、その様な「対話」の現場に毎晩付き合って、自信を喪失し、自らを迷わせ・・・自死に走らずして、生きて行くことの忍耐を忖度することのできる家族が存在するだろうか・・・。

父親とは、夫とは、至って社会的な存在である。女性の社会的な地位が低い、色々なチャンスが女性に与えれない・・・そんな国家的な愚痴は多い。しかし、その原因が「男性社会にある・・・」等と、幼稚な論理で解決するものか・・・夫源病は、この様な女性の側の論理が評価されている限り、「夫」から発せ続けられるだろう。そして、妻は苦しみことになる・・・反して、夫のことを悪口雑言。悪しざまに言いながら長生きする妻も多いのだろう。祭壇の中の、誇らしげな妻の「遺影」のい前で、打ちひしがれた「夫」を、君は、貴方は、「病源夫」と呼べるのか・・・妻の死因は、「夫源病」だったのだろうか・・・。
自死した夫の棺の前で、夫の日常の様子を同僚・後輩・先輩が語るのを聴きながら・・・そんなことぜんぜん知らなかった・・・と嘆く妻や、家族の言葉を幾つ聞いたことだろう。その度に、「俺の家族も・・・・」と思ったものだった。

記事に登場した医師の言葉を私は否定するものでもなければ、嫌悪するものでもない・・・ただ私は、「世間体」を機にすれば、妻も夫も、加えて子供も・・・語るものがあっても語れず、話題になるべき事柄への視線も消滅する・・・夫と妻と子供がちゃぶ台を囲む・・・そんな光景だけに価値観が求められる、日本の家族の歪み・・・大家族のエトスを嫌いながら、何処かに、大家族のエトスを求め、その両立の難しさに瞑目しながら、そのエトスの中の、身勝手な価値だけを求める・・・そんな家族に、病源夫が生れ、夫源病に倒れる妻が存在する・・・まだまだ、100年は、払拭に要するだろう・・・と、私は思う。